【Physical Expression Criticism】京都奈良紀行~歴史的建造物を訪ねて~1~
舞踏家桂勘主宰の舞踏フェスティバル『Kyoto Dancing Blade #2』に呼ばれて、7月15~17日、京都を訪れた。さらに、18日には奈良に移動して1泊した。
舞踏フェスでは、夜舞台を見て、その後、トーク「鼎談」に参加するというもの。そのため、昼間は、かねてから気になっていた京都の歴史的建造物を見て回ることにした。
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京都は寺社の街で数多くの神社仏閣がある。中学校、高校の修学旅行、そして近年、京都を訪れた際も、いくつかの寺を訪ねた。
だが、寺社は全面的にその姿を変えることはめったにないが、洋風建築の歴史的建造物は、東京を中心にその多くが破壊され、建て替えられている。そのため、姿をとどめるうちに見ておきたいのだ。
また、このコラムの第2回で書いたように、神保町のアートに関わり、そこで一つの歴史的建造物が失われるのを目の当たりにした。それも、いま、訪れておきたいという大きな理由である。
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必ずしも多くない海外経験だが、欧州のみならず中南米でも、歴史的建造物は、国や自治体がこぞって保全や有効活用を行っている。日本では、保存運動が始まっても、無視されることが多い。効率主義や目の前の利益のみを求めるゆえだろう。
今回のオリンピックで、堰を切ったように再開発が進んだが、多すぎる商業施設はいずれ淘汰されるはずだ。所詮は一時的に建設業が潤うだけという、負の歴史を繰り返している。日本は優れた建築技術がありながら、手抜き工事も頻繁で、耐震偽装は社会問題になった。また、安全と思われた食品でも、偽装が告発される。どうも日本企業には、隙あれば誤魔化して利益を得ようという風潮があるように思う。それゆえ建築物も、百年二百年耐えるものでなく、建て替えを前提につくられているのではないか。どうも、それを元々は紙と木の文化だからと、いいわけに使っているような気がする。
だが、大正・明治から昭和初期の建築は異なるようだ。大正までの建築の多くは、1923(大正12)年の関東大震災によって崩壊したが、そのため、大規模建築は、煉瓦づくりから鉄筋コンクリートへ移行した。その際、復興建築には煉瓦に似せたスクラッチタイルが多く使われるようになった。
京都にはこういった欧風建築の歴史的建造物がかなりある。京都市内は道路が碁盤の目状態でわかりやすく、地下鉄やバスも多いが、地下鉄の一区画が短く、歩くのも容易だ。また、坂も少ないため、自転車の利用が多く、商店街などを速い速度で走る人々に少々驚いた。
京都は、北から南に東西の道が一条から十条まで走っていることは知られているが、その中心街の一つ、四条通りと鴨川の交差点には、大きな洋館が二つある。一つはヴォーリズの設計によるものだ。
ウィリアム・メリル・ヴォーリズ(1880~1964年)は、東京では、1916年、明治学院大学の礼拝堂、1921年、早稲田大学近隣の日本基督教団早稲田教会(スコットホール)、1936年、お茶の水の山の上ホテル(旧佐藤新興生活館)などが有名である。1925年の御茶ノ水、旧主婦の友ビルも、そのデザインが現在のナレッジスクエアに残されている。
ヴォーリズは、英語教師として来日し、キリスト教普及のために滋賀県に近江ミッションを設立したが、建築家志望だったため、関西を中心に各地に多くの建築を残している。そのため教会建築、そしてキリスト教系を中心とした学校建築も数多い。
また、彼の起こした近江兄弟社は、日本にメンソレータムを普及したことでも知られる。「メンタム」の愛称があり、以前は一家に必ず一つあった、ナイチンゲールのイラストで有名な塗り薬だ。
京都でまず目指したのは、そのヴォーリズによる1926年の東華菜館だ。四条・鴨川の四条大橋の麓にある。最初は「矢尾政」という洋食店から変わった伝統的な中国料理店だが、独特の春巻きのように個性的なものもある。
内装も各部屋異なり、それぞれ意匠を尽くしているが、5階建の上の塔は、当時もいまも、京都四条のメルクマールの一つだ。1924年米国OTIS製のエレベータは日本最古である。
その橋の反対、鴨川を挟み斜め対面にある西洋建築が、同じ1926年に松村次郎設計で建てられたレストラン菊水(元菊水館)である。これからは、シンプルなモダン建築の要素も感じられる。こちらも各階のデザインがおもしろく、年季の入った階段にも味がある。窓からは、ほぼ正面に、1929年、安立糺設計の京都・南座が見える。
これは江戸・慶長年間に始まる日本最古の劇場とされ、関西の歌舞伎のメッカだが、1989年、舞踏の大駱駝艦が『怪談・海印の馬』公演を行ったこともある。
ヴォーリズの建物は、京都では他にもいくつもある。訪れたのは、1914年の日本基督教団京都御幸町教会(旧日本メソジスト京都中央基督教会)、1923年の大丸ヴィラ(旧下村正太郎邸)、1919年のバザール・カフェ(旧BFシャイブリー邸)である。
このバザール・カフェは同志社大学の前にあり、同志社の宣教師の家だった。外見は普通の昭和の住宅建築だが、カフェになっている内装、棚屋ドアノブなどのデザインに西洋が感じられる。
さらに建築家に注目してみよう。
伊藤忠太(1867〔慶応3〕~1954〔昭和29〕年)は、東京では、築地本願寺で有名である。1934年に建てられたインド、中東などの意匠が混ざった奇妙な建築は人目を引く。伊藤は、東大工学部卒業後、東南アジア、シルクロードを旅して欧州にわたった。そのため、インドやイスラム文化の意匠を取り入れた個性的な建築で知られる。平安神宮(1895年)、東大正門(1912年)、靖国神社遊就館(1930年)などにも関わっているが、東京では、1927年に一橋大学兼松講堂、1930年の東京都慰霊堂本堂(震災祈念堂)も設計している。
伊東は、法隆寺が日本最古の仏教建築であるとする研究で日本建築史を生み、それまで「造家」と呼ばれていたのを「建築」と改めるなど、日本の建築史に与えた影響も大きい。
京都では、伊藤忠太の建築がいくつかある。有名なのはまず、本願寺・伝道院である。1912年に「真宗信徒生命保険」の建物として建てられ、赤煉瓦の六角塔屋とインド様式の丸ドーム。そしてさらに特徴的なのは、妖怪、奇妙な動物たちの意匠である。伊東忠太は建築のあちこちに妖怪や動物の意匠を使うことでも知られている。この伝道院では、入口と周囲を取り巻く小さな柱の上にさまざまな動物が配されている。龍らしき幻想的な動物や象のようなものなど、なかなか愛らしい。東京・赤坂の大倉集古館(1927年)でも、階段の手摺り柱など、随所に見てとれる。
また、京都・八坂神社の奥、大雲院(祇園閣)の塔(1927年)も有名だ。大倉集古館同様、大倉財閥創始者、大倉喜八郎の依頼によるもので、喜八郎の別邸である。屋根が銅葺きなのは、金閣寺と銀閣寺があるので、銅閣寺にしたかったらしい。塔の先端は祇園祭の鉾を模しており、先端には、喜八郎の幼名にちなむ鶴がいる。
そして、あまり知られてないが、嵐山の法輪寺多宝塔(1936年)がある。今回は遠景を撮ったのみだが、2016年には近くから撮影したものがインスタグラムにあるはずだ。
伊東忠太をあげたら、師匠の辰野金吾(1854〔嘉永7〕~1919〔大正8〕年)をあげないわけにはいかない。辰野は、日本の近代建築の父と呼ばれ、有名な鹿鳴館(1883年)、ニコライ堂(1891年)、三菱一号館(1894年)などを設計したジョサイア・コンドル(1852~1920年)に工科大学校(東大工学部)で学び、英国でウィリアム・バージェスに師事した。帰国後東大教授となり、前述の伊藤忠太、武田五一などを育てた。
そして、代表作は有名な東京駅である。1914年に中央停車場としてつくられ、1923年の関東大震災、1945年の東京大空襲などで改築されたが、2012年に元の形に復元された。
また1896年の日本銀行、1918年の大阪市中央公会堂(中之島公会堂)など傑作が多いが、失われたものもある。
各地で、歴史的建造物として残っているものには、銀行も多い。京都のような大都市には、本店支店を含めてさまざまな銀行があり、当時の意匠をとどめるところも多い。
京都で辰野金吾の銀行建築は、1906年の第一銀行京都支店(みずほ銀行京都中央支店)、京都芸術文化会館(旧日本銀行京都支店)などは外観などが復元され、1914年の「TSUGU 京都三条」(旧日本生命京都支店)は一部に意匠だけが残っている。
辰野金吾の建築の特徴は、赤煉瓦に白いラインというデザインで知られるが、つくりが強固のため、辰野式とも呼ばれた。このデザインは、前述の弟子・伊東忠太による本願寺・伝道院にもみられる。
筆者が辰野金吾を知ったのは、遙か以前、渡辺一夫や小林秀雄を育てたフランス文学者、辰野隆(ゆたか)の父としてだった。いまは言及されることの少ない、当時のフランス文学者たちについても、いずれ書きたいと思っている。
※京都奈良紀行~歴史的建造物を訪ねて~2~に続く
■志賀信夫執筆他のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%bf%97%e8%b3%80%e4%bf%a1%e5%a4%ab/
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