【Physical Expression Criticism】いまも続くアンデパンダン展~1~
アンデパンダン展と戦後
アンデパンダンというと、読売アンデパンダン展が有名である。読売新聞の海藤日出男が企画して、1949(昭和24)年から1963年に、東京上野の東京都美術館で毎年開催された。現在の東京都美術館になる前のことだ。
それが美術史に残っているのは、1960年にネオダダ・オルガナイザーズを結成する赤瀬川原平、篠原有司男、中西夏之をはじめとする、多くの「前衛」美術家が出展し、過激な展示により1964年、中止に追い込まれたからだ。
1950年代後半から、ハプニングと呼ばれたパフォーマンス、当時は名前もなかったインスタレーションなど、斬新な展示が増え始め、音楽はもちろん、次第には小便をする、風呂桶に入り包丁を持って脅かすなど、過激な展示になったことが原因だった。
実はそれ以前、1947年から、日本アンデパンダン展が開催されており、そちらに出展していた池田龍雄などの美術家たちも、読売アンデパンダン展に移り、両方に出展する人もいた。
その背景には、1945年の敗戦後すぐに、戦時中に禁止されていた日本共産党が活動を再開すると、多くの文学者、美術家などが参加したことがある。米国中心の進駐軍は、当初、軍国主義からの脱却として歓迎したが、ソ連、中国共産党の影響をおそれて、1950年から、レッドパージを行った。そのため、反米の動きも強まり、共産党の活動の一環として、労働者から農民の階級闘争への参加を求めて、山村工作隊が組織され、地方の農家などで啓蒙活動、反地主闘争、労働争議などを行い、これに参加する美術家もいた。これらは、1960年の日米安保闘争にもつながってくる。
1946年、須田国太郎、林武、児島善三郎、岡鹿之助、柳原義達、土方定一らによって日本美術会が結成され、日本アンデパンダン展は、翌1947年に始まった。第1回展には、松本俊介、丸木位里、荻須高徳、木村荘八、津田青楓、鳥海靑児、中川一政、難波田龍起、林武、福澤一郎、村井正誠、安井曽太郎、山口薫も参加もしくは関わっており、現在からみると、洋画、日本画の重鎮が勢ぞろいしている。日本美術会創立メンバーの岡鹿之助は、フランス・アンデパンダン展にも参加しているため、その経験が生かされたとも考えられる。その後、参加した美術家は、中村宏、司修、本郷新、鶴岡政男、河原温、砂澤ビッキ、寺田政明、いわさきちひろ、森芳雄など数多い。
日本アンデパンダン展と同じ1947年、日本美術会の機関誌『美術運動』が創刊され、現在も続き、日本アンデパンダン展を含めた現代美術の動向を伝えている。
海外のアンデパンダン展
アンデパンダン展は、フランス・パリで19世紀末、1884年に、シニャック、スーラらによって始まった。参加していたのは、アンリ・ルソー、ロートレック、マティス、ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホ、ルドン、ムンク、ヴァン・ドンゲン、ヴラマンクなど。日本人も藤田嗣治、岡鹿之助、長谷川潔などが出展している。ベルギーでも開かれ、また、ドイツ・ウィーンの分離派もこの影響があるという。フランスでは、現在も続いている。また、1917年のニューヨーク・アンデパンダン展では、マルセル・デュシャンが、小便器を『泉』としてリチャード・マット名で展示して、物議を醸したことは、有名である。
フランス発祥のため、アンデパンダンはフランス語で、英語のインディペンデント、独立という意味である。つまり「独立展」なのだが、フランスにならい、無審査、自由出品となっている。
では、日本ではだれが主導で始めたのか。一般には海藤日出男とされているが、椹木野衣は、それに対して、1920年代にアナキスト大杉栄がパリ滞在、さらに辻潤が読売新聞の特派員(文芸特置員)でパリにいた流れを受けて、同時期にパリ在住で辻の次に特派員、後に副主筆・論説委員となった松尾邦之助が働きかけたのではと推測している。
読売アンデパンダン展と反芸術
1949年に始まった読売アンデパンダン展は、1951年第3回展では、ポロックが紹介され、1954年の具体(美術協会)の結成や、1957年、岡本太郎が関わった「世界・今日の美術」展、ジョルジュ・マチューの来日など、欧州のアンフォルメル紹介を受けて、日本でもハプニングなどが行われるようになり、一つにはその場として、多くの前衛美術家が各地から集まった。1960年の第12回展に出品された工藤哲巳らの作品に対して、東野芳明が「反芸術」と評したため、議論となり、それが広がり、加速した。
具体、九州派なども展示に加わったが、問題になったきっかけは、1958年第10回展で、九州派による共同作品「ゴミ作品」(出展作品のゴミをまとめて菊畑茂久馬が小便をかけた)が出展を拒否されたことだ。
そして、美術家も多数参加した1960年の安保闘争を挟み、1961年、吉岡康弘の女性器接写作品が「ワイセツ」として4日目に撤去。1962年、グループ音楽の刀根康尚のテープレコーダーが出展拒否。工藤哲巳が壁に男根を模したオブジェやコッペパン、床に精液を模したうどんを並べると、会期中に腐るとして撤去要請。さらに、時間派の中沢潮による「白布の下にビニール袋に入った絵具を置き、観客が上を歩くとビニールが破れて白布が染まる」作品が、床を汚す危険性から展示直後に撤去。風倉匠の「フーコーの振り子」による作品は、天井から吊り下げることを拒否。風倉は、袋に入った小杉武久の演奏で上はセーター、下半身裸で館内を動き回って踊り、二人とも静止されるなど。会場の東京都美術館は、1962年、以下のような「陳列作品規格基準要項」を制定した。
(1)不快音または高音を発する仕掛けのある作品
(2)悪臭を発しまたは腐敗のおそれのある素材を使用した作品
(3)刃物等を素材に使用し、危害をおよぼすおそれのある作品
(4)観覧者にいちじるしく不快感を与える作品などで公衆衛生法規にふれるおそれがある作品
(5)砂利、砂などを直接床面に置いたり、また床面を毀損汚染するような素材を使用した作品
(6)天井より直接つり下げる作品
これらの出品を拒否するとした。
これにより、当時のハプニング、パフォーマンス、インスタレーションなどの表現が大きく制限されることになる。いまからみると、どのような作品が問題になったかを類推させて、興味深い。
1964年、読売アンデパンダン展の中止が決まった際に、それに抗議して、5月に針生一郎、池田龍雄、瀧口修造らの呼びかけで、池田龍雄を実行委員長として、同じ都美術館で、「アンデパンダン'64」を開催した。なお、池田龍雄の初期の代表作『網元』は、1954年第6回展で展示されて注目された。前に示した中村宏作品とこの池田龍雄作品は、ルポルタージュ絵画の代表的作品とされ、前衛が政治の前衛でもあった時代、読売アンデパンダン展の背景を示している。過激なハプニングなどもその時代的背景がある。
さらに、1965年、岐阜で「長良川アンデパンダン」が開催され、各地でアンデパンダン展が開催された。九州派はそれに先立つ1958年の出展拒否から、九州アンデパンダン展を行っており、1962年の「英雄たちの大晩餐会」で終結した。
地方でのこれらの展覧会にも、ネオダダ・オルガナイザーズのメンバーを含めて、パフォーマンス、インスタレーション、映像などで、さまざまなアーティストが関わることになる。当時、このような前衛を求める美術家が、日本各地で活動していたのだ。
※いまも続くアンデパンダン展~2~ に続く
■志賀信夫他のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%bf%97%e8%b3%80%e4%bf%a1%e5%a4%ab/
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