【The Evangelist of Contemporary Art】市原研太郎のパリ・レポート(11/25~12/2)[1]
Day 1(11/25)
パリ到着初日は、午後から前回(ほぼ1か月前の10月後半、パリにやはり1週間ほど滞在した)見落としたアートセンターとギャラリーへ。
パリ大学ディドロ校のなかにあるbetonsalonで(1)行われていたグループ展(2~20)は、なんとも奇妙な光景だった。作品と作品の釣り合いが取れていない。テーマがないのが主な理由だが、それらの作品を面白いインスタレーションの仕方で同居させている。その釣り合いのなさが、逆に展覧会を興味深いものにしていた。鑑賞者は、釣り合わない諸作品の間のギャップにはまり、グループ展に捕らえられると言えばよいか。
前回見落としたギャラリーでは、Crevecoeur。
パリのやり手の若手ギャラリーらしいが、市内に二軒あり、その内の一つを前回訪ねたけれども、門が閉まっていて観ることができなかった。今回もそうだったが、電話番号を見つけて連絡したところ、なかから鍵を開けてくれた。
そこで開かれていた個展が、Nathaniel Mellorsの「Browserer」(21~28)。現在、レンヌの美術館でまとまった展示をしているとのこと。パリから1時間半。滞在中に行くことはできるか?
セーヌ河畔近くにあるもう一軒(29)では、Autumn Ramseyの個展(30~35)。シカゴ在住のアメリカ人女性画家で、滲む色彩がカオティックな流動的効果によって画面上の人間や動物や植物のメタモルフォーゼを促している。絵の具はカンヴァスに染み込んでいるが、ポストモダンのカオスの生成変化は軽やかだった。
Day2(11/26)
この日は、オルセー美術館を(36)訪れた。主目的は、常設展示を確認するためだったが、企画展の「Signac collectionneur」(37)と「Enfin le cinema!Arts, images et spectacles en France(1833-1907)」(38)も鑑賞した。
後者は、写真の出現以降のアートではなく、映像(動画)が出現した時代のアートを精査する試みである。会場には、映画の発明者、リュミエール兄弟の短編のドキュメンタリーがスクリーンに投影され、その間に同時代のアート作品が並べられていた。
そのような展覧会の構成で絵画を観ていると、作品のモチーフや形式が運動や時間に左右されるという意識が高まる。その代表的な例が、モネの『ルーアン大聖堂』のシリーズ(39~42)である。1日の刻の移り変わりとともに表情が変化する教会のファサードを眺めるにつれ、光の変化ひいては色彩の変化に鋭敏になるモネの姿が浮かび上がる。まさに感覚の陶冶である。
さて、オルセー美術館で現代アートと言えば、マルレーネ・デュマスの展覧会が開かれていた。その一つが、彼女がオルセー美術館の常設作品に介入するかたちで、彼女の作品が展示されている(43~57)。
それを観ると、死に憑かれているデュマスらしい所蔵作品と自分の作品の対照だった。それに、出展作でもっともサイズの大きい絵画(44、45)が、周りの19世紀の画家たちが活動した時代には珍しかったであろうマイノリティの肖像画であることも重要である。ウイリアム・ケントリッジ同様、南アフリカ出身の白人アーティスト、デュマスらしい選択ではないか。
別の展示室(58、59)には、彼女が19世紀の詩人、ボードレール(60)の詩集『パリの憂鬱』にインスピレーションを受けた作品(61~68)を、ボードレールの詩とともに飾っていた。
ボードレールという複雑なメンタリティの詩人を、やはり複雑なメンタリティを持つデュマスが、いかに料理するのか? 私の見立てでは、ボードレールの言葉に刺激された彼女の作品は引き締まった空気に包まれていたと思う。パリの話題の最新美術館Bourse de Commerceのピノー・コレクションに展示されたスカルの連作よりはるかに緊張感があった。
そして、展示作中もっとも衝撃的だったのが、『Le desespoir de la vieille』と題された詩(67)に付された絵画(68)である。
(文・写真:市原研太郎)
■今までの市原研太郎執筆ブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/
現在は、世界の現代アートの情報をウェブサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)にて絶賛公開中。
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