【Art News Liminality】まちとアートの浸透圧―「すみだ向島 EXPO 2020」を歩く その3/6
2020年の秋、すみだ向島に現われたアート/まちづくりのニューノーマルとは? 全6回にわたる批評ドキュメント。その3
コロナ禍という出来事に直面したまちは、その例外的な状況のなかでコミュニティのあり方を変容させ、再編させ、「隣人」としての他者を招き入れ、ともに暮らすことを迫られている。超高齢化とパンデミックに見舞われた多死社会のなかで、まちは空洞化しつつもまた別の仕方で蘇るのだろう。語り尽くせない不安と恐怖を分有(シェア)することによって可能になるのは、排除と分断の政治学を乗り越える対話への契機、あるいは声の交換だ。
今は米屋を閉じた小倉屋を舞台に《だれかの いま/シアター》(居間 theater/東 彩織、稲継美保、宮武亜季、山崎 朋)(*12)で語られ、聴かれたのは、パンデミックを前に生活を閉じることを余儀なくされた観客ら自身の体験談だ。「劇場」が閉じ居間(家)で過ごした誰かの時間の出来事を読み、聴き、書き記し、伝える。白く霧がかったガーゼのパーテーション越しに、不在の他者の声を聴き、想う。夕暮れの暮らしを静かに語る声から伝わるのは、まちのなか、あるいは外で生きる人々が直面する生活と気持ちの移り変わりだ。七軒長屋でも見られた《クロス/トーク》(大洲大作)(*13)とともに、発話/聴取の代理/体験を介してまちと人の交流を促すものだった。
小倉屋の内装などを作品として改装した《陽が差し込んだ風景》(ヒロセガイ)(*14)は、昭和期の高度経済成長を支え、平成期の経済的低迷を生き延びた「持ち家」のイデオロギーを令和期の「空き家」の問題へと軽やかに差し向けるものだった。
少子化を経て相続・承継が難しくなり、都市開発の煽りを受けて寂れてゆく町家と町工場、そして商店街が息を吹き返すとすれば、《墨田現代風俗画を描く》(海野良太)(*15)が描き出すような擬古的ながらも近未来的な都市群像のようなものになるかもしれない。AIによって増長されるアルゴリズムによるコミュニティの分断/融合のなかでキャラクターへと分解された人々は、ジル・ドゥルーズが管理社会のなかでn個のイメージへと自己を増殖させながら生きる存在として記述した分人(dividual)としての個体(individual)(*16)となる。現代風俗画のなかで暮らす人々は、マスク=仮面をつけたアバターのようで、2020年のムーンショットのビジョンが実現した後、あるいはコロナ後の人々とまちのニューノーマルなかかわりを風刺しているようだ。
小倉屋の庭を作品として改築した《ウロボロスの庭》(田原唯之)(*17)は、縁側を大きく縁取るフレームの効果により、キラキラ橘商店街に掲げられた葛飾北斎の《富嶽三十六景》のパネルと庭石の富士山溶岩、母屋の障子の木組みに描かれた富士山をつなげるものだ。米屋であった空間は日本の象徴的なイコンの歴史回廊へと転用され、時空間を超越したエスプリに満ちたインスタレーション作品へと姿を変えていった。
(*12)居間 theater.だれかの いま/シアター.https://sumidaexpo.com/artist/ima-theater/
(*13)大洲大作.クロス/トーク.https://sumidaexpo.com/artist/oozudaisaku/
(*14)ヒロセガイ.陽が差し込んだ風景.https://sumidaexpo.com/artist/guyhirose/
(*15)海野良太.墨田現代風俗画を描く.https://sumidaexpo.com/artist/unnoryota/
(*16)ジル・ドゥルーズ.宮林寛記(訳).記号と事件 1972-1990年の対話.追伸——管理社会について.河出書房新社.2007,
(*17)田原唯之.ウロボロスの庭.https://sumidaexpo.com/artist/taharatadayuki/
以上 文・撮影:F.アツミ(Art-Phil)
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