【The Evangelist of Contemporary Art】ヨコハマトリエンナーレ2020とは何だったのか?(その2-2)
24 レヌ・サヴァント《ミリャでの数カ月》
2-2(2-1からの続き)
ここで是非とも強調しておかなければならないのは、雰囲気が密やかとはいえ何も起こらない平穏な現実ではないということである。いや、それどころかカタストロフィが起こる前であったり後であったりしている。それだけではない。制作の最中にコンフリクトを抱える題材も取り上げられる。それが、トリエンナーレでもっとも密やかなレヌ・サヴァントの長尺の映像《ミリャでの数カ月》(24、25)である。インドの西海岸の集落に、その集落出身の映画監督が訪ねて村人の生活のドキュメンタリーを撮影する。だが一見長閑で平和な村には、火葬場をめぐってカースト間で係争が生じていた。
それらすべての表現が現実を指向している。この現実指向が頂点に達した作品が、次に紹介する二人の日本人アーティストのヴィデオだろう。岩間朝子の《貝塚》(26、27)と、飯山由貴の三つの映像(28、29)である。
二人の作品は、表現様式としてはサヴァントと同じくドキュメンタリーであり、現実世界を描写するには最適の方法である。彼女たちはその効果を遺憾なく発揮し、苛酷な現実や被差別の実態を淡々と記録してみせた。この密やかさが、逆に現実の問題(移民、大震災、精神医療、マイノリティの福祉)をじわじわとあぶり出す。彼女らの作品は、現実の奥底に確実に触れた内容として、今トリエンナーレ中もっとも優れたものだろう。
そしてこの密やかさは、美術館のスペースの前半最後に展示されたレイヤン・タベットによるシリアの遺跡から出土した発掘品のフロッタージュ《オルトスタット(「かけら」シリーズより)》(30)と、ローザ・バルバの核廃棄物貯蔵施設を撮影したフィルムの映像インスタレーション《地球に身を傾ける》(31)まで続く。後者には、その映像に対峙して「残光」が反映する家屋の壁(32)があった。
だが、これらのシリアスな表現は重々しいものではないことを指摘しておくことは重要だろう。それがはっきりとするのは、「エピソード」と呼ばれるトリエンナーレに付属するプログラムで、インティ・ゲレロが企画構成した「04《熱帯と銀河のための研究所》」(33、後方のガラス内の展示)に飾られた作品と比べるときである。そこに展示された石川真生と石内都の写真がもたらす重々しさは、彼女らが生きたモダンの世界観から生じる感情的な要素である。
それらとは対照的に、トリエンナーレの展示作品は軽い。だが、重い軽いは価値判断を含んでいない。前者はモダン、後者はポストモダンの基本的な情動だからである。その軽さは、どこからくるのか? それは、題材になるとはいえ現実は「エピソード08」で《舎密/The Story of C》を発表した田村友一郎の「空蝉」(34)のように、表層的だからである。
今トリエンナーレの出展作に共通する特徴は、この表層性である。作品でいえば、パク・チャンキョンの《遅れてきた菩薩》(35)のネガに反転した画像が、表層的な現実の軽さを巧妙に視覚化している。反転した画像は情報量が減り、現実より情報量が少ないポジの画像よりさらに軽いのである。
因みに今トリエンナーレの構成は、そのなかにいくつかの「エピソード(挿話)」を挟みながらも、幹となるストーリーがなかった。従って一貫した雰囲気のない展覧会であることは、美術館の前半のパートを過ぎると、密やかな雰囲気が揮発するように霧散したことで明らかになった。
(撮影・文:市原研太郎)
その3に続く。
現在は、世界の現代アートの情報をウェブサイトArt-in-Action(http://kentaroichihara.com/)にて絶賛公開中。
コメント