【The Evangelist of Contemporary Art】Tokyo Gendai 2023: 「東京現代」は何を意味するのだろうか? たしかにアートフェアは、作品(商品)を展示販売する高が見本市である その2

【The Evangelist of Contemporary Art】Tokyo Gendai 2023: 「東京現代」は何を意味するのだろうか? たしかにアートフェアは、作品(商品)を展示販売する高が見本市である その2

※その1からの続き

2. ローカルの作法: Tokyo Gendaiは、アジアで遅れを取った日本のアートマーケットの切り札か?

 新型コロナ禍によってその勢いが鈍らされているとはいえ、パンデミックが終幕を迎えて、再びグローバル資本主義の大波に世界が覆われようとしている。

 ところが、日本のアートマーケットにはその影響が及びにくい特殊な事情がある。21世紀の劈頭、アジアの興隆と入れ替わって日本が衰退の一途をたどっていることが明らかになったコロナ禍以前の2010年代、海外との亀裂が広がりつつあることを目の当たりにして、欧米だけでなく日本が属しているとされる東アジアのアートシーン(マーケットだけではない)とのギャップを感じないわけにはいかなかった。その間、日本はひたすら外部に目を閉じ内向していたのである。

 それでも不思議なことに、明治以来の慣習となっている欧米追随の文化的志向は持続していた。すでに日本は、現代アートにおいて欧米のみならずアジアから遅れているが、海外の野心ある主催者によって、Tokyoがようやく2023年7月、日の目を見た。それが実施される前年、隣国のソウルで開催されたFrieze Seoulを横目で眺めながら、来るべきTokyoは、その成否をめぐって様々に取り沙汰されたのである。

 私はといえば、Tokyoについて日本の参加ギャラリーの成績は、一部の例外を除いて心配していなかった。久々に極東の日本で開催される国際的な現代アートフェアということで、アジアのコレクターの高い関心と強い経済力の下、文化の蓄積に下支えされた有能なアーティストが今フェアで注目を浴び、円安で低価格の作品は飛ぶように売れるだろうと踏んでいた。

 むしろ心配なのは、国際的に名を馳せた狭い意味でのグローバルレベル、つまりバーゼルのArt Baselに出展する日本のビッグギャラリーが、取り扱う高額な作品のせいで苦戦するのではないか。それよりも、やはり円安の煽りで価格が高騰している欧米のギャラリーの成果はどうなのか、だった。

 たとえば、本フェアで私が場違いと思われるほどシリアス、そして力強い表現で周りのギャラリーから飛び抜けていた、Jack Shainman Gallery(15)に展示されたToyin Ojih Odutolaの絵画(16~20)は、世界のアートでトレンドの黒人の女性画家の作品ということで、数千万円という値の張る作品だったが、これを購入する日本あるいはアジアのコレクターがいるだろうか? また、パリに拠点のある新進ギャラリーFitzpatrick Gallery(21)に1点のみ飾られたJill Mulleadyの素晴らしい絵画(22)は、ギャラリストによれば希望価格5000万円らしいが、これを所蔵できる美術館はあるだろうか? ないのではないか。

 その心配は杞憂だったようだ。終幕直後のプレスリリースで、主催者が、これらの作品の買い手がついたと報告していたからだ。GDP世界3位の日本の経済力の潜在的なマーケット規模なら、それは朝飯前だろう。それも日本人がアートに通暁し親炙していればの話である。本気を出せば、日本は他の東アジアに負けないほどアートワールドに寄与するだろう。しかし、主催者の自画自賛の言葉を全面的に信じてよいのだろうか? にわかには信じがたいというのが正直な感想である。

 国内のメディアは、このフェアに冠された「国際的」を褒め言葉として使っているが、とはいえ海外とくに欧米のギャラリーは少なく、いわゆるグローバルレベルのメガと呼ばれるギャラリーの参加は主催者の懇請にもかかわらず見送られたらしい。その海外のギャラリーの成績が芳しくなければ、30年前にNICAFで起きたことの二の舞になりかねない。取引が成立しないと気づけば、忽ち海外のギャラリーは波が引くように去ってしまう。アートフェア東京の前身の国際的なコンテンポラリーアートフェアのNICAFに起こったように。

 そういえばアートフェアは、日本の国際展と同じ運命を辿っているのかもしれない。1970年に開催された伝説的な東京ビエンナーレのことだ。魅力的な「人間と物質」とタイトルされたビエンナーレは、この回が唯一の東京ビエンナーレであるごとく語られてきた。それほど当時の国際的な最先端レベルにあったビエンナーレは、その強烈なインパクトとともに伝説的な語り草になってきた。現在、日本の各地で村おこし的に行われている国際展は、東京ビエンナーレの国際展の使命をはき違えた二番煎じというわけだ。

 Tokyoが二番煎じであるわけは、過去に行われたNICAFのそれではない。他のところに理由がある。アジアの各国で行われて盛況を博しているアートフェアの二番煎じという。

 そのTaipeiにメガギャラリーが2つしか出ていないことで、他の世界のビッグフェアとまったく違った様相を呈したことは、すでに述べた。メガギャラリーの出展作品が代表するグローバルスタンダードがないことで、バーゼルのArt BaselやFrieze Londonと異なるフェアになる。メインに対するサテライトというのではない。私が《一本の筋》と名づけたアートの歴史的コンテクストが消失したフェアになってしまうのだ。

 さらにメガやビッグのいないTokyoは、Taipeiから一層無秩序に多様な趣味の表現の場になる。それ自体は悪いことではないが、箍が外れて見えるとすれば、Tokyoは楽天的で明るく元気な作品が集結したのだから問題なしとは結論できない。国際的とはいえ国内(ドメスティック)のアートフェアに近い構成で、そこに手前味噌的な自己満足が混じっているとすれば、今フェアを、諸手を挙げて万歳!とは叫べないのである。

 繰り返そう。とりあえず国際的だが、台北には出展していたGagosianとDavid Zwirnerをはじめとしてメガギャラリーの姿はなく、Perrotin(23~27)、Blum & Poe(28~31)、Sadie Coles HQ(32~36)、Almine Rech(37~41)以外の欧米の有力ギャラリーがない空白は、Taipeiのように《一本の筋》(歴史的コンテクスト)が涸れ川のように消えた以上の効果を、Tokyoにもたらした。その光景は、欧米の大都市のメインのフェアではなくアジアのギャラリー、とくに日本のギャラリーに特化したサテライトのフェアのようにも見える(アジアのギャラリーに特化したフェアは、すでにロンドン、パリ、ニューヨークで行われている)。その意味で、欧米の空白を埋めた日本のギャラリーがやたらに元気なフェアだった。

 有り体に言えば、Tokyoは期待された国際的なフェアを実現させたものの、グローバルスタンダードかと言うと、残念ながらそうではない。好意的に見積もって、欧米の大都市のフェアのメインとサテライトの中間に位置するアートフェアのレベルだろう。だが、それによって件の空白を埋める日本のギャラリーが相対的に際立つことになったことは、もっけの幸いだった。

その3に続く

(文・写真:市原研太郎)

■今までの市原研太郎執筆のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/

Kentaro Ichihara
美術評論家
 1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。現在は、世界のグローバルとローカルの現代アート情報を、SNS(Twitter: https://twitter.com/kentaroichihara?t=KVZorV_eQbrq9kWqHKWi_Q&s=09、Facebook: https://www.facebook.com/kentaro.ichihara.7)、自身のwebサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)、そしてTokyo Live & Exhibits: https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/にて絶賛発信中。

情報掲載について

当サイトへの掲載は一切無料です。こちらからご登録できます。https://tokyo-live-exhibits.com/about_information_post/

コメント

*
*
* (公開されません)