【The Evangelist of Contemporary Art】アートフェアのなかのアートフェア、Frieze London 2023(その2) 市原研太郎(文・写真)
3. Frieze London 2023の泰然自若と秘められたサバイバル競争
Frieze Londonの2023年の参加ギャラリーは170軒以上で、現代アートのすべてが揃っている。しかも、非常にクオリティの高い作品が陳列されていた。以前本ブログで同年のFrieze Seoulを持ち上げたが、元祖Friezeには敵わないというのが偽らざる感想である。
だが、この泰然自若としたFrieze Londonの会場風景(1のフェアマップを参照)のなかで、たとえばニューヨークの有力ギャラリーTanya Bonakdar(2~14)のブースは、他のフェアなら、このギャラリーが押し出す実力あるアーティストの作品でインパクトがある、どころかお釣りが戻ってくるほどだろう。ところが、Frieze Londonで偶々隣り合わせになったDavid Zwirnerの展示作品(15~33)と比べると、この世界屈指のアーティストたちを集めたメガギャラリーのラインアップは完璧で、Bonakdarと作品のレベルに差があることが明白になる。
このように、ハイレベルの作品の不可視のバトルが繰り広げられるFrieze Londonの凄みを、フェアの様々な場所で目撃した。しかし、このバトルはギャラリー間の切磋琢磨と捉えるべきで、フェアがギャラリーを横断して作品同士を競い合わせ、全体のクオリティを高める契機としている。
とはいえ長い目で見れば、非情な通俗劇さながら暗い地底で演じられているのは、表面上は華やかなアートフェアに参加するギャラリーたちの浮き沈みである。今から10年以上前、若手だったギャラリーが中堅に差し掛かり、ギャラリー間のサバイバル競争の結果、勝敗の構図が見えてきた。フェアに投げ込まれたアートは、理想(優劣のない平等)からはるかに遠ざかった適者生存の進化論の世界だったのだ。少なくともアートマーケットは、それを暗黙の法則として成り立っている。
具体的に語ると、使い古されたスタイルの作品は言わずもがな、シンプルなミニマルやコンセプチュアルでさえ、現下のアートマーケットには通用しない。思考の柔軟性に欠けたり(ステレオタイプの堅苦しい表現)、スペクタクル的(見掛けのみの空疎)な作品を取り扱うギャラリーは確実に没落する。実際、以上の意味でつまらない作品を飾っていたギャラリーのブースは閑古鳥が鳴いていた。今のところこの傑出したフェアに展示できるだけマシというものだが。
この調子で、メガと呼ばれる大手のギャラリーも淘汰されるとよい。メガも、明確なヴィジョンを持ち作品の価値を高める意図でブースを構成したギャラリーとコマーシャリズム(利益至上主義)でブルーチップの作品を並べたギャラリーで、展示の強度が違った。その意味でHauser & Wirth(34~43)とWhite Cube(44~47)が通路を隔てて対峙した場面(48)は、会場でもっとも鮮やかなコントラストを刻んでいた。言うまでもなく、アートフェアで勝利の女神の栄光を掴んだのは前者である。
このような具合にギャラリー・ブースの作品を観ながら心が高揚し、別のブースで写真を撮りつつ思いを巡らせているうちに、たちまち1日が過ぎてしまった。
当然、フェアのすべてを制覇することはできない。その上で、私にとって今日の優秀ギャラリーと最優秀ギャラリーをピックアップしておこう。
優秀ギャラリーとして名前を挙げたいのは、Lisson Gallery(49~54)。ロンドンの老舗ギャラリーとして現代アートシーンを牽引してきたLissonは、ニューヨークのギャラリー街に支店を出して一気にグローバルなギャラリーへと登りつめた。
その成果が、今アートフェアにも現れている。躊躇することなく、キッチュというタブー・ブレイキングな表現に手を染めたのだ。このギャラリーの時代を読み解く眼の鋭さは、さすがである。
さて最優秀ギャラリーとして、まだ観ていない若手・新進のセクション(詳細は次章)を除いて、中堅以降で文句なく一番素晴らしい展示ブースだったのは、やはりロンドンのJosh Lilley(55~65)だった。
(文・写真:市原研太郎)
■今までの市原研太郎執筆のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/
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