【The Evangelist of Contemporary Art】ヨコハマトリエンナーレ2020とは何だったのか?(その3)
表層的ではあるものの濃厚な密やかさを体験できたのは、前述した横浜美術館のスペースの半分までだった。それ以降は、タイトル=テーマの「残光」らしき要素も、それから派生する密やかさの雰囲気も消えてしまった。タイトルのサブテーマとなるようなキーワードは、各スペースに並べられた作品を通じて見出されたのだが……。新(キム・ユンチョル《クロマ》36)と旧(エリアス・シメ《アリ&陶芸家、来るべき5》、37)のテクノロジー、身体性(タウス・マハチェヴァ《目標の定量的無限性》、38)、エコロジー(インゲラ・イルマン《ジャイアント・ホグウィード》、39)、エスニック(オスカー・サンティラン《宇宙工芸船(金星)》、40)である。
だが、後半は美術館の前半のような引き締まった雰囲気に包まれることなく、それらの作品がばらばらに散在しているという印象を受けた。それが最終的に露わになったのが、メイン会場を移動してプロット48の手前にある南棟の展示だっただろう。
その2階のスペースの半分を占めたエレナ・ノックスの《ヴォルカナ・ブレインストーム(ホットラーバ・バージョン)》(41~44)が、その掉尾を飾るに相応しいインスタレーションである。そこは、トリエンナーレの参加アーティストのノックスの作品と、彼女が呼び掛けて集めた他の多数のアーティストの作品によって埋めつくされていた。私はこれに、先述の「エピソード04」と同じような違和感を覚えた。表現が重々しいのではない。今度は、エロティック(ノックス自身の作品はとくに)だが、インスタレーション全体は無秩序でカオティックな様相(それ自体は悪いことではない)を呈していたのである。
このインスタレーションの前に鑑賞した作品は、密やかであるなしにかかわらず表層的だが、無秩序ではなかった。だが、ここに到って表層の展覧会の底が抜けたように思われた。だからといって、展覧会が台無しなったわけではない。むしろ、今トリエンナーレの性格を明らかにしてくれた功績が、このコーナーの展示にはあったのだ。表現された現実世界の密やかさと表層性が、混在する作品のインスタレーションを背景にくっきりと浮かび上がったのである。
だがトリエンナーレは、これで終わりではない。南棟3階のどん詰まりにあるアントン・ヴィドクルの《これが宇宙である》(45、46)が、「Afterglow」に最後の火を点し、爆発を誘発したのだ。それは、あたかも超新星の爆発のように、宇宙エネルギーの不滅性を密やかに(地球から肉眼では観測されないので)宣言する映像だった。しかも「宇宙は美と調和」であり、カオスではないという。そのエネルギーが補給されれば、いかに困難に思われようと、現実の問題を解決することは不可能ではないだろう。
そのエネルギーに満たされた意識で北棟の会場に行くと、観覧者をして受動性を克服し変革の意志を目覚めさせる二つの作品、ジョイス・ホーの《バランシング・アクトⅢ》(47)と飯川雄大の《デコレータークラブ 配置、調整、周遊》(48)に出逢った。そして、不滅のエネルギーを供給されたまばゆいライトのインスタレーション《1、2、3 ソレイユ!》(ハイク・アイヴァジアン、49)は、その期待に宇宙から応答しているように思われた。
「Afterglow」(タイトル=テーマ)の復活はストーリー(物語)の復活であり、希望(曙光)の復活(ラヒマ・ガンボ《タツニア(物語)》、50)でもあるのだ。
(撮影・文:市原研太郎)
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