【The Evangelist of Contemporary Art】抵抗の拠点としてのアート―最近鑑賞した若いアーティストたちから立ち上がる抵抗の残像

【The Evangelist of Contemporary Art】抵抗の拠点としてのアート―最近鑑賞した若いアーティストたちから立ち上がる抵抗の残像

 なぜ、残像か? 儚く消え去る幻影ではない。脳裏に記憶の痕跡が刻まれるほど、逸楽の強烈なイメージ。それは連鎖する。強烈な残像は別のそれと共鳴し響きあい、人間の活動は、この残像の連鎖が織りなす環境の影響を蒙る。

 その意味で世界の土台となるこの残像が、本文で取り上げるアーティストの作品からどのように練り上げられるのか。そして、それらが節合して世界の最前線に抵抗の防波堤を築くのかを見極めてみたい。

 最初は、Akio Nagasawa Gallery Aoyamaで開催された、アーティスト本人が境界を横断するスクリプカリウ落合安奈の個展「journey」(6月3日~6月19日)。展示された二種類のシリーズからは、近さ(境界の曖昧化、擬人化)と遠さ(自己と他者の違い)を感じる。境界のどちら側にも属す、あるいは属さない人間の特異な感性だろうか?

 彼女にとって横断することは普通(格別意識することがない)の出来事である。なぜなら、彼女のなかに境界が走っているからだ。それは国境であり、動物の種差である。絵画(1~3)では、猿が擬人化している。私から見れば「他者」の意識が足りないのではと思われる。だが、彼女にとって彼女自身は人間であり猿である。と同時に、どちらでもない。ナショナリティについても同様だ。国籍はさておき、彼女は日本人でありルーマニア人である。したがって、彼女にとって境界はあるようでない。だから軽々と跨ぎ越せる。それが自然であろうと人為であろうと。

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 以前、彼女がアジアに旅した日本人商人の足跡を追うヴィデオ作品を鑑賞したことがあるが、普通に他者との境界を越える。境界を越える他者の場合は、余計にそうだ。境界の内側にも外側にも属さない存在は、領土概念がない。領土化も脱領土化も再領土化も関係ない。これが、彼女だけでなく彼女の作品を浮遊させる稀有の契機である。彼女の作品の強度は、表現が希薄であればあるほど強い。ちょうど過去に生きた人間たちの呼気を集めた紗の網目のように存在が薄いのだ。それが、彼らを匿名の存在(4~6)にする。そして、彼らもアーティスト同様、空間だけではなく時間の境界を越えていく。

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 かたや、LEESAYAで開催された毒山凡太朗「反転する光」(5月22日~6月20日)(7)は、歴史に名前を刻んだ個人を取り上げる。匿名にできない存在の高村光太郎と彼の妻、智恵子である。ギャラリーでは、高村光太郎の詩集『智恵子抄』のなかの智恵子の臨終を歌った「レモン哀歌」から着想を得た作品が展示された。光太郎の詩の一節に、智恵子の出身地の福島と3.11の原発事故とが重ねられる(8、9)。ヴィデオ(10~12)では、加害者と被害者の可逆性をめぐる矛盾をレモンに託した「ミミクリ」と「アゴーン」混合型のゲームの模様が映し出される。

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 だが、さりげなくレモンがエネルギー源になる暗示(13)を与えて行われるゲームに登場する人物は、匿名というより無名である。その無名の人間に焦点を当てることで、彼らの役割の目的が明確になる。一方は加害者、他方は被害者。境界を挟んでこちら側と向こう側である。それが立場を変えて反転することが示される(戦争における光太郎の悔恨の徴である光の反転(14)を参照)。加害者と被害者が入れ替わるから、どちらも許される、許すべきだと言いたいのではない。運命のコンテクスト(社会体制、歴史)に翻弄される無名の人間の姿が、無邪気な楽しいゲームの裏側に透けて見えるのだ。

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 アーティストの心には、この運命的な役割(ミミクリ)の不可抗力に対する義憤があるのではないか? 本展の後、「帰還困難区域」を訪ねるツアー(15)が行われるとのこと。毒山は、抵抗の前提として現在の事実(フェイクニュースではなく)を知ることから始めようとしている。

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 MEMで個展「紙の上のお城」(5月26日~6月20日)を開いたのは、谷原菜摘子である。彼女は、紙の作品には紙の作品の良さがあると言う。

 展示作でもっとも興味を惹かれたのは、彼女がパリで出会った無名の市民の肖像画(16~20)である。彼女/彼の表情に窺われる運命が、その顔に刻まれている。深いシワ(意識の襞とも言うべき面貌のデフォルメ)のある顔付き。必死で運命に抗い、自分の生を自身に取り戻そうとする人々だ。彼らの欲望と悲愁を見抜くアーティストの眼力は鋭い。だが、それはリアリズムではなくシュルレアリスム的である。とはいえ空想ではない。シュルレアリスムが人間の無意識に回付される非現実的イメージを探究したように、彼女の想像力は無意識が揮発した現代のリアル、つまりシュルなきシュルレアリスムを模索しているのだ。アーティストの谷原もまた、肖像画のモデルと同じく故郷喪失者である。

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 その彼女の想像力にいつの日か理念(モダンではないポストモダン以降の)が宿ることを祈りたい。それは、彼女の奔放な想像力をさらに飛翔させて、運命をひっくり返す力をもたらすのだ。

 この運命に異なる視点から闘いに挑むアーティストがいる。現実の境界(運命を決定する)に対する執拗な闘争である。その究極の解答が、現実の日本の中心にあった。人間(日本人)の運命が左右される境界がそこに引かれているとすれば、それを侵犯する誘惑に駆られても不思議ではない。

 実は、私は抵抗するアートを日本の周縁(ローカル)にばかり探してきた。というのも、抵抗するアートは中心ではなく周縁にあると信じていたからである。ところが、日本の辺境が内部それも中心のすぐそばにあった。というのも日本の中心は空虚で、その周囲に境界が引かれ、立ち入り禁止の看板が立っているからである。その横(近代美術館の隣)には機動隊が待機している。

 次に紹介するのは、この中心の辺境に棲むアーティストの話である。これがハチャメチャに面白い。WHITEHOUSE(21)で行われた個展、渡辺志桜里「ベベ」(5月30日~6月20日)である。

 日本の中心の空白=暗黒星雲(22)に挑む異端のアーティスト(何であれ閉ざされているものに嫌悪を覚えるとアーティストは言う)の誕生だろうか?

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 とはいえ彼女は、植物(野菜)と動物(魚)のエコシステム(23~28)を綿密に構築して、毎日その生育状況を見守っている(時々、その成果を収穫することも)。日本の境界が中心の近傍を走り、その外部の反転した内部が空白、つまり禁断のファイナル・クエスチョン(解答なき質問、正当化なき正当化)であり、それによって社会の通常のサイクル(エコシステム)が成立し維持されることをよく知る人間は、このようなアーティスト(29)だった。

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 この循環する完璧な装置が、空虚を中心とした日本の支配システム(体制)を構造的に小規模に反復する。しかも、その空虚のすぐそばで。そうなればなるほど、体制を暴露するチャンス(30)は増えるが、同時に取り込まれるリスクも高まる。渡辺はどのようにしてそれを回避するのか? 毒山が赴く周縁のフクシマでは、このエコシステムが破綻しているのだが、中心の近傍に居座る彼女は、自身が好きだというアルトーのようにスキゾフレニックな想像力を働かせて、体制から逃走の線を引くのだろうか? その場合、その線は外側ではなく内側に向かって引かれるだろう(たとえばシステム内の交配による種の混濁・雑種化)。同じく境界を横断するにしても、前述の落合とは正反対の方向である。

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 以上のように多種多様な方向に延びる抵抗のベクトルは連鎖して絡み合い、その目撃者(鑑賞者)の脳裏に残像を送り込む。その残像のカオティックな集積が、今度は鑑賞者のなかに抵抗の拠点を作り出すのである。

 (文・写真:市原研太郎)

■市原研太郎他のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/

Kentaro Ichihara
美術評論家
1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。
現在は、世界の現代アートの情報をウェブサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)にて絶賛公開中。

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