【The Evangelist of Contemporary Art】第14回光州ビエンナーレ―水の美的教育について(その1)

【The Evangelist of Contemporary Art】第14回光州ビエンナーレ―水の美的教育について(その1)

1. 2023年、再び光州へ

 2018年、第12回のビエンナーレ以来、5年ぶりの光州(1)である。非常に懐かしく感じる街(2)は、少なくとも外見上変わった様子はなかった。

 5年のブランクではあるが、3年間は新型コロナ禍によるロス、1年延期されて国内勢が多く短期間の前回のビエンナーレから2年の間を置いたという意味で、変則的だが正規のビエンナーレの開催と言ってよいだろう。

 実際、今年の第14回ビエンナーレ(3)を鑑賞して、その意を強くした。新型コロナウィルスのパンデミックが発生する直前の2019年あたりから、その最中の2020年から2022年にかけて開かれた数少ない(中止や延期があったので)ビエンナーレが掲げた諸々の問題を継承して、今ビエンナーレのテーマに再登録しているように思われたからである。また、参加アーティスト数は79組と元に戻っていないが、新たに光州ビエンナーレ・パビリオン(9か国)が加わって、新型コロナ以前の規模に近づいている。

 「Soft and Weak like Water(水のようにソフトで弱い)」という今ビエンナーレのタイトルからして例外ではない。「水」という題材は、2022年のシドニー・ビエンナーレのタイトル、ラテン語の川の意味の「Rīvus」(4)と被っているし、同じシドニーを遡ると、2020年のアボリジニを中心に世界の先住民を全面的にフィーチャーしたビエンナーレの内容を受けて、光州の会場の重要なスポットに先住民のアーティストの作品が配置されている。

 これらのトピックに加えて、2017年、2019年、2021年の台北ビエンナーレを通じて取り上げられたアントロポセンやエコロジーのテーマ系を踏まえた展示(今ビエンナーレではGallery 5に集中的に並べられている)もあり、ようやく新型コロナウィルス感染症の影響から立ち直ろうとしている現代アートの世界に、その現在地点を照らす正統派の国際展になっていた。

 とはいえ、今ビエンナーレに特有の問題がないわけではない。それは、国際展が開催される光州という地域の特殊性である。だが、このトピックについても2022年コソボの首都、プリシュティナで開催されたマニフェスタ(5、ヨーロッパ域内で行われるノマド的ビエンナーレ)が、光州の民主化運動に先んじて地域の紛争(コソボ紛争)の歴史を展覧会のコンテクストにしたことを考え合わせると、2023年の光州ビエンナーレは、新型コロナ禍直前と際中の困難な時期に実現された一連の国際展の諸テーマの総まとめとして位置づけることができるだろう。

 しかし、今ビエンナーレの構成とそれが提起した問いに対する解答には、前述の他のビエンナーレとは異なるユニークな点がいくつかある。そこで、2023年第14回光州ビエンナーレの展評は、そのユニークな構成と、そこから導かれる結論に絞って簡潔に考察したいと思う。

2. ビエンナーレ・ホール【1】:冒頭の美のショックと水のアンビュギュイティ

 今ビエンナーレは、メイン会場のビエンナーレ・ホール(6)の各ギャラリーに、これまでのビエンナーレと違って、逆方向からギャラリーの順番がつけられているのがまず目につく特徴である。

 ビエンナーレ・ホールの全部で5つある広大なスペースの順番を逆にしたのである。そのように鑑賞者の動線を逆コースにしたのは、「Encounter」(7)と名付けられたGallery 1に置かれたBuhlebezwe Siwaniの巨大な映像インスタレーションを収める容器が、ホール1階のスペースにしっくり適合したからだろう。

 このスペースの全体を占めるSiwaniの作品(8~12)は、ビエンナーレに来たばかりの鑑賞者に強烈なインパクトを残すという点で、非常に効果的だった。この作品によって今ビエンナーレが何をするのかを、冒頭で高らかに宣言したのである。しかし、それは何だろうか?

 結論を先取りすれば、「水」の持つアンビギュイティを提起した上で、それを解消することである。ビエンナーレでは、テーマの水はソフトで弱いものとされているが、逆に甚大な被害を及ぼす津波に明らかなように、硬くて強くもある。

 展覧会の構成でいうと、水のこのアンビギュアスな性質が、「Luminous Halo」(13)とサブタイトルされたGallery 2の作品(14~18)に反映されている。企画趣旨によれば、柔らかく弱い水は硬く強いものにも勝てるので矛盾とパラドクスを孕むとされるが、本展評では水のアンビギュイティ(強弱の両面性)を主張したい。上述のGallery 2のセクションは、展覧会の方向性を一旦見失わせる意図があるのではと思われるほど混沌としていた。水のアンビギュアスな異なる様態が、バラバラに提示されていたのだ(⽔の比喩を用いるなら、展覧会はこの地点で乱流を形成していた)。

 このアンビギュイティを解消する著しい例として提示されたのが、前に戻るがGallery 1のインスタレーションである。強烈なインパクトを与えたアンビギュティの要素は、インスタレーションの中央に置かれた水槽のなかの水であり、水のアンビギャスな状態を解消するのが、大自然の映像に登場するアフリカの女性であり、彼女らのダンス・パフォーマンスである。

 人間は、自然と対立する人工の起源である。しかし、人間は⾃然から⽣まれたので⾃然に属する。ゆえに、自然と人工の二元論は虚偽の対立、つまりイデオロギーである。同時に、人間の女性に課せられる両者の調和も虚偽の対立の解消なので、イデオロギーでしかない。

 ではSiwaniの映像に感じた美は、人間(女性)と自然の調和のイデオロギーと断言してよいのか? 美は、虚偽の言説(イデオロギー)ではない。なぜなら、女性のパフォーマンスが開示する美は、人間と自然の真実の調和の徴だから。

 女性を自然と同一視するイデオロギーではなく、人間と自然の間の調和を成就する美が、水のアンビギュイティを解消する。美が、海(水)から生まれた女性のパフォーマンスのジェスチャーによって実現され、水の弱と強の両面性が融合し解消されるのだ。

※その2に続く

(文・写真:市原研太郎)

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Kentaro Ichihara
美術評論家
 1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。現在は、世界のグローバルとローカルの現代アート情報を、SNS(Twitter: https://twitter.com/kentaroichihara?t=KVZorV_eQbrq9kWqHKWi_Q&s=09、Facebook: https://www.facebook.com/kentaro.ichihara.7)、自身のwebサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)、そしてTokyo Live & Exhibits: https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/にて絶賛発信中。

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