W'UP!★9月21日~11月16日 開発の再開発 vol. 7 大石一貴|消滅Ⅱ gallery αM(新宿区市谷田町)

W'UP!★9月21日~11月16日 開発の再開発 vol. 7 大石一貴|消滅Ⅱ gallery αM(新宿区市谷田町)
「消滅 Ⅱ」のためのイメージ(原案:大石一貴、ビジュアル:石田和幸)

αMプロジェクト2023‒2024
開発の再開発 vol. 7 大石一貴|消滅Ⅱ
会 場 gallery αM(東京都新宿区市谷田町1-4 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス 2階)
開催日 2024年9月21日(土)~11月16日(土)
開廊時間 12:30〜19:00
休廊日 日、月、祝
入場料 無料
ホームページ https://gallery-alpham.com
問い合わせ 03-5829-9109
ゲストキュレーター 石川卓磨(美術家・美術批評)
協 力 平和紙業株式会社、株式会社竹尾

アーティストトーク 9月21日(土)18:00〜
大石一貴×石川卓磨
会期中にイベントを開催予定です。
詳細は決まり次第、WebサイトとSNSにてお知らせいたします。

大石一貴(おおいし・かずき)
 1993年山口県生まれ。彫刻家。自他の持つ断片的な経験の時空間と、それを知覚させる物理的な事象に着目し、不確実な物事の隙間と余白、間(ま)にまつわる彫刻・インスタレーション・映像・詩などのメディアで制作、発表を続けている。主な個展に「KAZUKI OISHI: For instance, Humidity」sandwich (CFP)(ブカレスト、2022)など。主なグループ展に「ARTISTS STUDIO第8期
Exhibition」ソノ アイダ#新有楽町(東京、2023)、「大韓民国ソウル特別市チュングウルジロ18キル25-2ムンヨンビル303号の三Qで2022年12月9日金曜日午後12時からはじまって2022年12月30日金曜日午後19時に終わる展示に紺野優希と大石一貴とユ・ジョンミンは参加する。」三Q(ソウル、2022)、「おなじみのうごき」Art Center Ongoing(東京、2022)、「Artists in FAS 2020」藤沢市アートスペース(神奈川、2021)、「WALLAby / ワラビー」銀座 蔦屋書店 GINZA ATRIUM(東京、2020)、「群馬青年ビエンナーレ2019」群馬県立近代美術館(2019)など。

想像力としての消滅
 大石一貴の「消滅Ⅱ」は、「物質と想像力」の関係を再開発するために、彫刻と詩という二つの方法論を併存させている。大石にとって「消滅」という観念を支える物質的リアリティは、作品の中心的な素材である水粘土の脆弱性や経年変化にある。この水粘土を身体的・経験的に観察し続けるなかで、「消滅」に対する彼の想像力が生まれている。大石にとって水粘土の特性とは、単なる物質の条件に留まらず、作品の本質的な変容・崩壊を引き起こす可能態となる。大石はこの特性から世界を解釈する仮説や方法論を展開する。つまり水粘土は物質であると同時に観念的なメディウムでもある。この関心は、ガストン・バシュラールの「想像力の哲学」と共鳴する。
 「かくてわれわれは、想像力の哲学の一教義は、なによりもまず物質的因果律と形式的因果律との関係を研究すべきであると信ずるのだ。この問題は彫刻家にとってと同じく詩人にとっても課せられる。詩のイマージュもまたある物質をもっているのだ。」*
 物質的因果律は「物質的要因に生命を与える想像力」、形式的因果律は「形式的要因に生命を与える想像力」として説明できる。バシュラールは物質と言語(いわば彫刻と詩)を、異質な対象としてではなく、想像力という一つの視座から捉えようとする。ただしその想像力を、物質的想像力と、形式的想像力とに分けて定義し、前者の重要性を強調するのである。物質的想像力は物質の「個別性」に、形式的想像力は分類を可能にする「全体性(共通性)」に焦点を当てることだ。例えば、一つの黒い碁石に「個人」と同様の個別性を見出すか、それを黒い碁石たらしめる全体性を捉えるか、という二つの軸である。バシュラールは、美学において物質が持つ個別化の機能は、過小評価されてきたと指摘している。この問いは、大石が詩にも展開しており、「わたし」と記された文字に、他の「わたし」とは異なる個別性を見出そうとすることにもつながっている。
 こうした物質的想像力を前提にしなければ、大石が展開する「消滅」を理解することは難しい。なぜなら、「わたし」が消える・消えたことを認識するためには、「わたし」が存在する・存在したことを認める必要があるからだ。
 さらに、大石は「消滅」において、ドッペルゲンガーとの遭遇という神話的現象を示唆している。
 ドッペルゲンガーの遭遇は、対消滅という素粒子の現象と類似する。対消滅で物質と反物質が出会うと互いに消滅するのと同様に、ドッペルゲンガーも自分自身と出会うことで、どちらか一方、あるいは双方が存在しなくなるといわれる。このアナロジーを通じて、彼は「消滅」を構築している。大石は、「物質と想像力」の可能性を SF 的な思考実験としてアップデートすることで、彫刻と詩の伝統的な関係に新たな視座を与えている。
 石川卓磨
* ガストン·バシュラール『水と夢̶̶ 物質の想像力についての試論』[第七版]小浜俊郎・桜木泰行訳、国文社、1982 年、12頁。

消滅Ⅱ
 ひとつの彫刻の組成は、一編の詩がモチーフとなり決定される。厳格さと曖昧さの両方を備えたルールの適用によって詩が彫刻として出現する。ルールは以下の通り。
・一編の詩の全文を連(段落)に分けてユニットに置き換え、別のユニット同士が繋ぎ合わされることで彫刻は構成される。ベースになるのは「消滅する言葉」に該当する単語であり、詩の全文の中で必ず同じ主語的二単語を一組としてそれを有する。一編の詩の中で「わたし」的主体にあたる同じ単語が二つ詠まれた時、これらはいわゆるドッペルゲンガー * とみなされ、二単語一組として立候補し、ひとまず粘土で物質化するべき対象になる。
・モチーフの詩内には「消滅する言葉」以外の単語や文節が多く残ることになるが、それらは「接着剤としての言葉」という自由な形(芯棒に取りつく粘土、既製品による言葉のイメージの具体化)で役割と物質をここでは与えることとする。
・ひとつのユニット内の「消滅する言葉」と「接着剤としての言葉」の数々は、文字面の見かけの時系列に沿って麻紐により繋ぎ留められている。ユニット内の文字を繋ぎ留めるこの法則をある種の摂理的引力とみなすならば、結束保持されている言葉の入れ替えや削除のような変更は不可とする。
・連ごとに区切られた数だけユニットは存在するが、「消滅する言葉」が一遍の詩の中で二単語のみである以上、なかにはユニット内に「消滅する言葉」が無い場合もある。そうすると、一編の詩において「消滅する言葉」と「接着剤としての言葉」の両方を持つユニット、もしくは「接着剤としての言葉」だけを持つユニットが存在することになる。これは全く問題にしない。
・粘土で物質化された「接着剤としての言葉」同士は、ユニット間に限り粘土で(番線などの芯材で補強しつつ)線的に接続させられる。接続させる対象物の法則として、押韻や詩のレトリック、言葉で共有され得るイメージ、といった詩の諸要素にあたる物体を固定支点とみなす。
・ドッペルゲンガーとみなされた「消滅する言葉」の一組は、例外なく物理的に衝突(接触)している。もしくは融合(しようと)しているような外見になる。
 以上のルール、もとい「縛り」は未来に向けたインストラクションとも言えるが、すでに起こった出来事の叙事詩でもある。この条件下では、その彫刻は詩の持つ可逆的な時間性に接近してゆき、後に消滅する運命へ導入される。
* 自分とそっくりな姿をした存在。ドッペルゲンガーに出会うと互いが消滅するという言い伝えなどがある。

 現代は、気候変動、感染症、戦争、自然災害、テクノロジーなどによって、永続すると信じられていた日常が大きく変動し、将来の予測が困難な激動の時代となりました。この時代の現象には、ネガティブなものばかりではなく、不平等、差別、暴力を強いてきた社会や構造に抗議し変化を与えていく社会運動も含まれています。ソーシャリー・エンゲイジド・アートやアクティビスト・アートなどは、社会に直接的に関わり、そのような時代に対応したアートだといえます。しかしそのようなアートと社会の関わり方を見ると、そこにはさまざまな障害、温度差、矛盾、認識不足が存在しています。そのため私は、社会に直接関与しようとするアートのアプローチに限定せず、造形的表現や美術史においても、この時代を乗り越えるための新しい認識や方法へのアップデートが重要だと考えています。
 「開発の再開発」というタイトルは、以上のような前提に向けられています。そして、開発であれ、再開発であれ、そこではなにかしらの「新しさ」が関わることを意味しています。
 しかし、哲学者・美術批評家であるボリス・グロイスが指摘するように、この数十年間アートで「新しいことをするのは不可能である」という言説や認識が広く影響力をもってきました。「アートの終焉」(アーサー・C・ダントー)の言説は、この影響の歴史的な起点になっています。ここでの「終焉」とは、アートという営為自体の終焉を示しているのではなく、「アートの終焉」以後のアートが存続していくことを前提にしています。つまりアートは終わったままこれからもずっと続いていく。そのため「新しいことをするのは不可能である」という悲観的表明は、美術史の重荷や緊張関係から解放されて、アーティストが個々人の表現活動を自由に展開できればいいという楽天的な気分を含んでいます。
 では、この激動の時代において、アートは、「新しさの終わり」や「アートの終焉」に留まり続けていていいのでしょうか。冷戦体制崩壊後の時代を象徴する「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)という歴史認識に、批判的な検討の必要性があるとされているように、「新しさの終わり」という認識から批判的に脱却する必要があるのではないでしょうか。
 ただし、これまでのトレンドと差異をつくり出すような新手のトレンドを提示したいわけではありません。なぜならそれは結局トレンドの構造を何も変えることがないからです。むしろ私たちは、これまであまりにも一方向的(過去→現在)な「新しさ」を信じ、限定的な価値基準で「新しさ」を認めてきたのではないでしょうか(アートの新しさとは、作品の様式や美術館の内部だけにあるものなのか)。
 「開発の再開発」とは、「新しさ」をつくり出す開発という概念自体を、批判的に再開発する試みです。また、開発は結果ではなく過程であり、実験、研究、調査という行為が不可欠です。再開発は、開発がもつ拡大・拡張の一方向的なベクトルとは異なる時間的・空間的な展開を意味します。本展覧会シリーズの8組のアーティストやコレクティブには、テーマや表現形式に共通性がないとしても、それぞれが歴史や方法に関わる研究・実験的活動やコンセプトをもっています。それを駆動しているのは必ずしも作品や展覧会に成果が集約されないモチベーションかもしれません。展覧会や作品は、結果としてわかりやすく「新しさ」を示さないかもしれません。しかし、この投げかけによって
 「開発の再開発」とは何かを考える契機が鑑賞者にも生まれるのではないかと考えています。
 石川卓磨(美術家・美術批評)

石川卓磨(いしかわ・たくま)
 1979年千葉県生まれ。美術家・美術批評家。芸術・文化の批評、教育、製作などを行う研究組織「蜘蛛と箒」を主宰。近年の主な論考に「パーティーの後で」『中﨑透 フィクション・トラベラー』図録(水戸芸術館現代美術センター、2022)、「寄生し、介入する 旅するリサーチ・ラボラトリー評」『丸亀での現在』図録(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、2022)、「アフリカ系アメリカ人として生きる「怯え」と文化的混血性。ラシード・ジョンソン「Plateaus」レビュー」(Tokyo Art Beat、2022)、「特権的な眠りー福永大介「はたらきびと」展」『月刊アートコレクターズ2021年1月号』(生活の友社、2021)など。

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