【Physical Expression Criticism】画廊と前衛~大正時代の美術運動

【Physical Expression Criticism】画廊と前衛~大正時代の美術運動

村山知義デザイン『朝から夜中まで』模型。『構成派研究』1925年

 20209月、企画編集した本の出版記念トークが、コロナのため、それまでの紀伊国屋などではできないために、神保町の画廊を皮切りに新橋、日本橋、横浜まで続けてきて、1月に銀座の画廊でやると決まった。そのときに「銀座と画廊」というテーマを考えた。倉庫街や各地域で活躍する画廊も多く、「銀座の画廊は終わっている」という声もあり、それをテーマにすることにした。

 そのため、銀座の画廊史を少し見てみようと思った。最初のコラムに書いた「神保町アートネットワーク」を立ち上げたときに、日本で最初の画廊は、神田で高村光太郎が始めたと知ったため、調べ始めた。するとそれは、前回書いたオル太『超衆芸術スタンドプレー 夜明けから夜明けまで』ともつながることがわかってきた。それで、画廊と大正時代の美術の動きについて考えてみた。

琅玕洞と酒井好古堂。『日本洋画商史』1994年

画廊の誕生

 日本で最初の画廊は、1910(明治43)年、高村光太郎が神田淡路町に開いた琅玕洞(ろうかんどう)といわれている。骨董商の酒井好古堂だったところだ。日本の美術商の起源は江戸時代。それ以前からも茶道具や書画、骨董は取引され、骨董は平安時代から扱われていたが、店舗を構えるようになったのは、江戸時代からという。書画屋、浮世絵屋、骨董の道具屋などが生まれた。そして1907年には、美術商組織として「東京美術倶楽部」が誕生し、現在も続いている。美術品の輸出・輸入も行われ、西洋画も扱われてはいたが、西洋画を商う美術店としての最初の「画廊」が、琅玕洞だった。

流逸荘の店内。『美術週報』1915年1月

 その後、1913(大正2)年に神田三崎町に画家・木村榮一がヴィナス倶楽部を開き、虎の門美術館、日比谷美術館が開かれる。1914年には、銀座に画廊三笠、銀座に美術研究・批評家の田中喜作が田中屋美術店、神田小川町に詩人・川路柳虹や黒田清輝が関わり仲省吾の流逸荘、京橋には竹久夢二が港屋を開いた。1916年、銀座に玉木屋美術店、また、1919年には、神田神保町に写真家の野島康三が兜屋画堂、福原信三が銀座の資生堂2階「陳列場」(資生堂ギャラリーの前身)を開いている。これらの画廊では、洋行から帰国した梅原龍三郎など、多くの画家が個展やグループ展を開催している。ほとんどが銀座と神保町、その付近だ。だが、これらの画廊の多くは数年で閉じ、あるいは関東大震災で失われた。

マヴォが発行した雑誌『マヴォ』

未来派、三科、マヴォ

 このころ、大正時代の新たな美術運動として、1920年には普門暁、木下秀一郎らによる「未来派美術協会」、さらに1922年には二科会から、木下らが無審査(アンデパンダン)を掲げた「三科インデペンデント」、中川紀元、神原泰、古賀春江などの「アクション」が生まれている。そして1923年には、フランスから帰国した村山知義と柳瀬正夢、尾形亀之助、岡田龍夫、高見沢路直(田川水泡)らによる「マヴォ」が結成される。これらはいずれも、ロシア、イタリア、ドイツなどのダダイズム、未来派や表現主義、構成主義の影響を受けており、日本で新しい前衛美術運動が始まった。

 この年に神田小川町の流逸荘では、村山が欧州で交流したアーキペンコやカンディンスキーなどの「露独表現派展」が開催され、マヴォの第一回展が浅草・伝法院で開催されるが、その1カ月後の91日、関東大震災が起こるのだ。

マヴォによるバラック装飾「森江書店」『建築新潮』1924年7月号

 関東大震災によって、多くの画廊や、神田の文房堂、資生堂や三越、白木屋、松坂屋、松屋、星製薬など、絵画を展示していた「絵画陳列所」も焼失した。そのなかで、今和次郎、中川紀元などの「アクション」同人が、バラック装飾社を結成、復興後のバラック建築をデザインし、村山知義らマヴォ同人も同様の活動を行った。マヴォには建築家も参加していた。

 1924年には、未来派、アクション、マヴォなどを含めた「三科会」が結成される。その同人の一人だった画家、中原実は、九段に画廊九段を開く。また、「オル太」の回で記したように、小山内薫らが立ち上げたバラック建築の築地小劇場で、村山知義デザインのゲオルグ・カイザー作『朝から夜中まで』が上演された。これは未来派とも構成主義ともいえるデザインで、マヴォのバラック建築に共通する要素も見てとれる。

「劇場の三科」のチラシと画廊九段における「劇場の三科」の稽古。
右:『万朝報』1925年5月30日

 翌1925年、さらに、村山知義らによる「劇場の三科」展が開催される。同じ築地小劇場でパフォーマンス、ダンスなどを含めた、新しい芸術が模索された。また、画廊九段では、日本初のアンデパンダン方式の「首都無選展覧会」を開いているが、「劇場の三科」の稽古場にもなっていたという。

 マヴォなどの活動は、コラージュ、アッサンブラージュや廃品を利用した立体造形作品もあり、また、二科会に対する「落選記念展」などでは、屋外で絵画を展示した。そして、震災直後には、画廊や展示空間を焼失したため、いくつものカフェなどで同時に開催するという展示方法も行っている。アンデパンダン展も含めたこれらの展示は、新たな自由な展覧会を模索するという、現在にも通じる試みであった。それらを支えていたのが画廊だった。これらの活動が約一世紀前に行われていたことは、驚くべきことだ。

前衛の道

 マヴォの活動は数年で、三科会も解散する。2年後に残ったメンバーなどでもう一つの「劇場の三科」展が行われる。村山知義は、演劇や社会主義運動になど、大正時代の前衛を担った美術家たちも、それぞれ異なる方向へ向かう。次の昭和という時代は、次第に戦争への道を突き進み、村山もたびたび逮捕される。こうして、大正時代に生まれた新しい芸術の動きは、戦争とともに失われていった。震災復興、美術と社会、表現の自由など、現在と共通する点は、多々あるのではないか。トランプや日本を含めた世界の右傾化、それに対する揺り戻し。コロナの大きな波によって、美術と社会との関わり方は、今後さらに変化するのかもしれない。

(文:志賀信夫)

Nobuo Shiga
批評家・ライター
編集者、関東学院大学非常勤講師も務める。舞踊批評家協会、舞踊学会会員。舞踊の講評・審査、舞踊やアートのトーク、公演企画など多数。著書『舞踏家は語る』(青弓社)共著『美学校1969~2019 』『吉本隆明論集』、『図書新聞』『週刊読書人』『ダンスワーク』『ExtrART』などを執筆多数。『コルプス』主宰。https://butohart.jimdofree.com/

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