【The Evangelist of Contemporary Art】さいたま国際芸術祭2020を観て―行政アートの顛末(前半)
さいたま国際芸術祭(1)を一言で語れば、それが「さいたま」を意識すればするほど、ローカル色が薄れていくということである。行政区分のローカル(さいたま市)は、確かに存在する。だが、そのローカルとしての特徴(ローカリティ)はほとんどないように見える。それは、「さいたま」が東京のベッドタウンであり中央に吸収されているからである。
さいたま国際芸術祭は展覧会なので作品がある。だが、それが取り戻したいと望んでいるだろうローカルは遠ざかるばかりだ。さいたま市がどう言い訳しようと、中央に依存し独自の文化を耕してこなかったツケが回ってきた。前回2016年に開催されたさいたまトリエンナーレ(その後改称された)は都市の殺風景な場末感を漂わせていたが、今回の芸術祭は、後述するように日本の中央集権の政治システムを、地方行政において忠実に再現していた。
それを説明する前に、話題を変えてヨコハマトリエンナーレ2020(前レビュー参照)と比較すれば、違いは歴然としている。ヨコトリの表現は軽かった。言うまでなく、その軽さはポストモダン由来で、非政治性ともどもアートマーケットの無言の要請であり、それに配慮しないことはグローバルから切り離されることを意味する。グローバルなアートのコンテクストから外されるのである。それが、日本の現代アート全般をめぐる苦境になっているのだが、それ自体は悪いことではない。
その点で、さいたま国際芸術祭は興味深い事例となる。グローバルから離脱して否応なくローカルでありながらローカリティが欠如しているからである。それだけではない。実はこのローカリティの欠如は、日本のアートの特殊性(伝統ではなく現代のローカリティの欠如。日本はローカルではないと憤慨することがローカリティのない証拠)をなしている。「さいたま」は日本を入れ子状に映し出しているのである。
なぜローカリティが欠如しているかというと、日本の政治システムが、ローカルからローカリティを抹消してきたからである。その歴史的な当事者である行政機関の元施設が、芸術祭のオンサイト(オンラインまである贅沢さ)となった。メインサイト(Main Sight)の旧大宮区役所(2)とアネックスサイト(Annex Sight)の旧大宮図書館(3)である。それは地方行政がいかに円滑に機能してきたかの現場(onsite)の「風景(sight)」(会場=作品)であり、規律ある官僚制度の末端を示している。
だが「さいたま」は、この行政組織の犠牲となってローカルの力を失った(今頃、反省しても遅い)。それを批判した唯一の作品が、平川恒太のインスタレーションと絵画だった(4、5)。区役所のオフィスを復元し、均質一様の「右へ倣え」社会を明るく皮肉ってみせたのだ。しかし、この底抜けに明るい向日葵とは、一体なんだろうか?
(撮影:市原研太郎)
後半に続く。
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