【The Evangelist of Contemporary Art】Art Basel 2025を観て―アートフェアに自由平等の夢を見ることは無謀か? 美術評論家 市原研太郎
[1]はじめに
21世紀のむき出しのエゴイズム(ネオリベラリズムの言い換え)と、20世紀からの遺産であるニヒリズム(キャピタリズムが要請する)が仕掛けた戦争と残虐の現代に、アート界は相当の危機感を持っているようだ。
2025年のArt Basel(1 ※写真番号、以下同じ)に出展している各ギャラリーが、自らのブースを現下の厳しい状況に負けまいと心血を注ぎ込んでいるのを目の当たりにした。現実に無力を感じて諦めアートに逃避するのではなく、アートの強度で戦争と残虐行為を止めさせる。アートならそれが可能であると信じて、各ギャラリーの得意分野を最大限に表現し尽くすことを試みる。その思いと熱気が、今アートフェアの全体から滲み出ていた。
やはり世界最大のフェアである。規模もレベルもクオリティもまるで違う。あらためて近年開かれたアートフェアに順番をつけると、No.3が2024年の新興勢力揃い踏みのFrieze Los Angeles、No.2がフェアの長いキャリアで余裕の2023年Frieze London、そしてNo.1が断トツで今年のArt Basel Baselだろうか。アートマーケットは景気に大きく左右されるので、このベスト3は流動的で儚い。ならば、その時代のアートフェアをまずは享受することである。
そのイントロとして、今年のアートフェアの特徴は、やはり近年世界で注目される日本人アーティストの作品が増えていることである。たとえば実存的コンセプチュアリズムの植松奎二(2、3)。
話は飛ぶが、メガギャラリーの1つDavid Zwirner(4)は、いつもながらフェアの王者の貫禄ある振る舞い(5)だった。どのアーティストのどの作品も、レベルが高い。結局ビッグがビッグな所以は、クオリティの高い作品を常に提供できるかどうかである。
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[2]今年のArt Baselは特別だったのか?
今年のArt Basel Baselは、ギャラリーもアーティストも力が入り、充実した素晴らしい出来だったと、[1]で述べた。
理不尽な戦争と堪えがたい悲惨な現状に、フェアは意気消沈して萎縮するか、逆に意気軒昂してアートの力を見せつけるか。そのどちらかに振れるかと思っていたが、非常時と言ってもよいこの情勢を考えれば、中止になってもおかしくない。周囲で起こる戦争と悲惨に対してほとんどすべてのギャラリーが、同じ火の粉が我が身に降りかかることもあるという自覚の緊張感で各ブースの構成をした結果、全体として並外れたパワーを発揮していた。
たしかに、現下の戦争や残虐行為に直接言及するものはいないが、アートの力が世界を変え平和にするという強い信念が、充実したフェアの背景なっていると思えた。
さてレビューの詳細を綴れば、[1]でアートマーケットは密かに日本人ブームであると語ったが、日本人アーティストだけでなくギャラリーも、その恩恵に与っているようだ。大阪にあるThe Third Gallery Aya(6)が1階のゾーンで選ばれているのを見たとき少し吃驚した。ギャラリストの方に話を聞くと、独力で応募し参加を勝ち取ったとのこと。私は、Baselの本家Art Baselに出展することの難しさを知っているので、実力でこの地位を確保したことは尊敬に値する。
The Third Gallery Ayaが日本の写真(7、8)に強い点が認められたのだろう。他に日本のギャラリーでは、新たに東京の若手ギャラリーが2つ選ばれていた。日本はArt Baselの常連組が少ないのが実情で、日本のアートの規模ならArt Baselに10軒くらい出展していても不思議ではない。日本と世界の間にはコンテクストの断絶があり、これが障害となって世界への進出が阻まれている。この溝を埋めるのはアーティストとギャラリーの努力次第なので、密かな日本ブームにあやかって世界進出を企むギャラリーが現れてもよいと思う。
さて、Art Basel Basel初挑戦の東京の若手ギャラリーは、PremiereのセクションでKosaku Kanechika(9)のJunko Okiの刺繍(10)、Statements(11)のセクションでKayokoyukiのMasanori Tomitaの絵画(12)の出展となった。どちらのギャラリーも新人として大健闘していたが、後者のMasanori Tomitaを、私が勝手に設定した今フェアのギャラリーとアーティストの新人賞にノミネートさせてもらった。
ここで指摘しておきたいのは、グローバルなアートフェアに参加する際に問題となるのが歴史(通時的コンテクスト)で、日本のお隣りの韓国はその構築を着々と進めていて、その成果として国際的なレベルの若手アーティストが育ちつつある。その韓国のアートマーケットにおける世界進出の2つの橋頭堡がHyundai(13、14)とKukje(15、16)で、この2つのギャラリーの世界戦略が対称的であることは特筆されてよい。一口で言えば、前者はグローバル、後者はローカル狙い。さらに、勢いのある韓国系でニューヨークのチェルシーに拠点を構えるのが、Tina Kim(17、18)である。最近、急速に成長しているギャラリーで、精力的に韓国系アーティストを紹介し、彼らの作品を現代アートの中心の1つであるニューヨークに広めている。さらにロサンゼルスには、現在飛ぶ鳥を落とす勢いの韓国系ギャラリーCommonwealth & Councilがあるが、今Art Baselではギャラリーとアーティストの新人賞の候補に挙げたので、後述する。
出展ギャラリーに戻って、Tina KimとTina Kengは、名前が似ているのでいつも混同してしまうのだが、台北の大手ギャラリーのTina Keng(19、20)は、Art Baselで素晴らしいラインナップの作品展示だった。飾り方が上手かったことも作品を映えさせていたと思う。
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[3]アートフェアと政治?!
話題を変えよう。アートフェアで政治を語ることは難しい。アートは、Felix Gonzales Torresの作品(21〜23)のように逃避的ではないにしても消極的に世界に対峙する姿勢(ここより良いどこか、しかしそんなどこかはない)になりがちである。だが、これも世界を語る政治的なメッセージではある。
しかも、アートフェアのようなアートマーケットのど真ん中で、現下の世界情勢を批判的に言及する作品はない。とはいえ、Torresのような消極的ではなく積極的な意味で政治をモチーフにする作品がまったくないかというとそうではない。会場で見つけた順に作品(24〜29)をピックアップする。
世界一の規模(今年は289のギャラリーが参加し、作品のレベルも世界一だった)のフェアで、私の見落とした作品が多々あるとはいえ、やはり政治的表現は少ない。マーケットが政治を回避する傾向にあることの紛れもない証左である。それどころか、フェアだから売れればよいとするいわゆるコマーシャリズムのギャラリーがある。経済優先のこの態度を大っぴらにやるとすれば、もうお手上げである。その代表のギャラリーの名前を挙げれば、グローバルに活動を展開するAlmine Rech(30)。
Rechに限らずアートフェアに参加するすべてのギャラリーが、少なからずコマーシャリズムに従って営業しているのだが、その極端な例がRechというわけだ。アートフェアは商品としての作品の取引の場(即売会)と割り切り、売れ線の作品(31)を店頭に並べる。それで完結なら、Rechを本レビューで取り上げる価値はいささかもない。
ところがである。ロンドンやニューヨークのギャラリー街にあるRechのギャラリーではカッティングエッジのアートの展覧会を開くことに吝かではない。しかも、このカッティングエッジは本物ときている。さらりとカッティングエッジを陳列するギャラリーの鑑識眼をまざまざと見せつけられると、Rechという一介のギャラリーより、その背後にある欧米のアートの歴史の重みを犇々と感じる。
そこまで深く反省しなくとも、アートフェアと展覧会でギャラリーが豹変すると、逆に呆気に取られて清々しい。
さてアートフェアは、表面的にアートの流行を反映する。私の今回のヨーロッパ滞在の出発点だったベルリンの大手ギャラリーは、軒並みスペクタクルで派手な展示に乗り換えてしまった。これには、ベルリンのアートマーケットの規模という裏事情がある。生真面目に良心的な展示(実際、ベルリンのコマーシャルなアートシーンは、それを律儀にやってきた。それをベルリンの壁の崩壊以前から現在まで持続しているギャラリーもある)を頑張ってやっても、ベルリンのような小さなマーケットでは作品を売ることは容易ではない。ならば、周囲の耳目をそばだたせるために、派手で目立つことをしよう。というわけで、現代アートの堅実なカッティングエッジを開拓してきたSociété(32)まで、Esther Schipperやneugerriemschneiderに次いで、スペクタクル路線(33)に方針転換した。
だがベルリンは、若手から中堅のいくつかのギャラリーが、欧米の他の都市にはないタイプの表現を掘り下げている。それらのギャラリー(34〜39)を紹介する。マーケットの小さいベルリンからは撤退したが、他の都市(ウィーン)で復活しているギャラリー(40、41)もあった。とにかく今アートフェアは、どのギャラリーも全力で充実したブース作りに励んでいたので、フェアのどの部分を切り取っても、食傷したり気分が萎むことはなかった。
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[4]アートの自由と平等
新型コロナウィルスのパンデミック以降の景気後退期に、世界はウクライナやパレスチナ(ガザ)で20世紀の負の遺産と言うべき世界大戦と冷戦のツケを払わされている。とりわけ戦争というアートと相容れない最悪の事態に遭遇したアートマーケットは、それ以前の成長から一挙に下降局面へと変化しようとしている。
リーマンショック後、隆盛するグローバルマーケットを席巻していた中国勢はどうなったのか? 中国も、この21世紀型紛争の当事者であり、すでにその犠牲にされて民主主義が圧殺された香港のアートシーンは、どうなったのか? Art Basel Hong Kongは、Art Basel Baselの姉妹フェアであり、グローバリゼーションを目論むArt Baselのアジアにおけるハブとなるアートフェアだが、中国の一党独裁に従属する開催地の香港は、グローバルなアートマーケットから切り離されたように見える。
その代償ではないだろうが、Art Basel Baselにはメインランドチャイナのギャラリーが数多く参加していた。
中国の現代アートの老舗ギャラリー、上海のShanghART(42、43)は健在か? 古い友人が運営する広州のVitamin(44、45)は? 首都北京のアートの魔術師、Magician Space(46、47)は? その他のギャラリーに、体制の締め付けはないか? 中国の現代アートを観察すると、非政治的な表現に逆に政治性を強く感じることがある。
ギャラリーの浮き沈みは、中国のみに限らない。政治的理由だけでなく、今アートフェアのギャラリー・ブースを巡りながら、しばらく観てないけれど頑張っているギャラリーにぶつかった。反面、今まで頑張ってきたけれど大丈夫か、と心配になるギャラリーもあった。とりわけ21世紀初頭に流行していた多文化主義のギャラリーの退潮を目にする。その最後の立役者、ニューヨークのJames Cohan(48、49)がかすんで見えるのだ。
多文化主義系のギャラリーの凋落は、現代アートの浮き沈みが激しいことの証だが、アートにおける多文化主義の使命が潰えたわけではない。それはフェミニズムの流行が過ぎ去った後も、ジェンダーの問題が解決したのではなく、むしろフェミニズムの運動が下火になることで性差別が陰湿に生き延びることと同じである。したがってポスト多文化主義は、フェミニズムの地道な活動のようにマイノリティやローカルなアートに発展的に継承され、文化的な多様性が平等に成就されるのを見届けなければならない。それには闘う姿勢が重要になる。
アートがグローバルでもローカルでもなく、自由平等な世界を獲得するには、アートマーケットはどう変革されなければならないのか? 今Art Baselのようにギャラリーが自由を十全に発揮して生き生きとした表現を鑑賞者に差し出すことは前提として、その後に来るべき世界はDEIといったスローガンではなく、平等を達成する具体的な方途を見出すことである。
その一歩として、アートフェアに参加したいくつかのギャラリーの展示作品をアップしたい。そのなかには、他の都市ではなく同一の都市で復活したニューヨークの中堅ギャラリーがあった。それも含めて、それらのギャラリーが自由と平等のケーススタディとして認識されることを望む。実際、今Art Baselはアートフェアで曲がりなりにも平等を実現し得た稀有の例ではないか? そしてその潮流は、アートフェアの垣根を超えて、現実世界に横溢していくのではないか。
1. 復活のAndrew Kreps(50、51)。ニューヨークのチェルシーで元々センスの良いギャラリーだったKrepsは、しばらくチェルシー(チェルシーはメガとロンドンからのギャラリーに占拠されている)のメガギャラリーの勢いに押されて影が薄かった。それが、今年のArt Baselで復活した、というか、その優秀さが再認識された。
2. やはりニューヨークの老舗ギャラリー、P・P・O・W(52、53)。宙づりの舟のインスタレーションは、アートフェアの来場者に驚嘆を持って迎えられた。その舟が最新でなく老朽であることが、不思議な親近感を呼び起こす。海賊船か難民を乗せた舟なのだろうか? 現代をあてもなく漂流する我々を象徴するかのような船団への共感が、親近感を醸し出す。
3. コマーシャル・ギャラリーらしいギャラリーということで、ロンドンのオシャレなPilar Corrias(54、55)。マーケットが、このギャラリーの扱うポストアートの作品を適正に取引する近い将来が訪れることを願う。
4. 同じくロンドンで、イギリスのプリミティヴィズムを残しつつ洗練された唯一無二のEmalin(56、57)。
5. 現代アートのメッカ、ロンドンにあるダブリンが本拠地のmother's tankstation(58、59)。ロンドンの若手(すでに中堅に差し掛かっている)ギャラリーの底力を知るには、そのリーダーであるCarlos/Ishikawaを引き合いに出すまでもあるまい。この外様のギャラリーは、世界でもっともレベルの高いアートシーンのロンドンで特異な位置を占め奮闘している。
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[5]Art Baselに出現した綺羅星のごとき新進ギャラリー
さて、本レビューを締め括るに当たり、今年のArt Basel Baselの新人と若手ギャラリーのプライズでノミネートされたアーティストと作品をおさらいしておこう(あくまで私のチョイスです)。
・Soft Opening/Rhea Dillon(60、61)
・Kayokoyuki/Masanori Tomita(62)
・Anat Ebgi/Tina Girouard(64、65)
・Commonwealth & Council/Lotus L Kang(66、67)
このなかからプライズの行方を予想するとすれば、私は迷わずLotus L Kangを推薦する。現在のグローバルなアートシーンで、アジアとりわけ韓国系アーティストの活躍が目覚ましい。そのなかでもKangは脱北の移民の出自を持ち、つねに彼女の表現の細部には移動=変化の痕跡が刻まれている。しかも、その分節の繊細さとリアリティは比類ないのだ。
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(文・写真:市原研太郎)
■今までの市原研太郎執筆のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/






































































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