W'UP★10月9日~12月20日 特別展「躍動する明代の書―台北・何創時コレクションの至宝」 大阪市立美術館(大阪市天王寺区)

特別展「躍動する明代の書―台北・何創時コレクションの至宝」
会 期 2026年10月9日(金)~12月20日(日)
会 場 大阪市立美術館(大阪市天王寺区茶臼山町1-82)
開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)
休館日 毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、翌平日休館)
入館料 一般2,000円、高大生1,200円、小中生500円、前売・団体一般1,800円、高大生1,000円、小中生300円 ※団体は20名以上。前売券販売期間:2026年8月6日(木)10:00~10月8日(木)23:59。本展の観覧券で企画展示もご覧いただけます(観覧当日のみ)。未就学児は無料。障がい者手帳をお持ちの方と介護者1名は無料(要証明、障がい者手帳等は日本の法律に基き交付されたものに限る)。大阪市内在住の65歳以上の方も一般料金が必要です。
ホームページ https://www.osaka-art-museum.jp/special_exhibition/mindai
このたび、大阪市立美術館では、台北の何創時書法芸術基金会が所蔵する中国・明時代の書画の名品を紹介する特別展「躍動する明代の書―台北・何創時コレクションの至宝」を開催いたします。
何創時書法芸術基金会は何国慶氏によって1995年に台北で創設された財団で、昨年30周年を迎えました。明・清時代の書を中心に多数の作品を蒐集し、展覧会・講座などの活動を通じて書芸術の振興を図っています。日本の書家や研究者で訪れる方も多く、注目されています。
この度は、そのコレクションの中でも質量ともに最も充実している明代中期から明末清初の書に焦点をあて、日本初公開の作品を多数含む82件を精選して展示します。江戸時代には文徴明・董其昌らの書をもとに、唐様が流行しました。黄檗僧らがもたらした明末清初の書は、今日の書壇でも手本として習われています。
明代の書は多様性に富み、個性あふれる作品が揃っています。この展覧会を通じて、躍動する筆墨の美をぜひお楽しみください。



- 倪元璐「行書李商隠詩」 明時代・17世紀 台北・何創時書法芸術基金会蔵
- 傅山「草書酔後浪書」 明~清時代・17世紀 台北・何創時書法芸術基金会蔵
- 宋玨「隷書黒児像賛」 明時代・万暦45年(1617) 台北・何創時書法芸術基金会蔵
見どころ
① 台北が誇る書の至宝・何創時コレクション―日本初の大規模公開!
総数およそ2500件のコレクションの中から、優品82件を一挙に公開します。このうち72件、出品の9割近くが日本初公開作品です。何創時コレクションがこれほどの規模にて日本で紹介されたことはなく、貴重な展覧会となります。
② 呉(蘇州)派・華亭(松江)派の大家の書画は必見!
明代中期に活躍した蘇州(江蘇省)の祝允明・文徵明・王寵、後期に書壇の主流を占めた松江(今の上海市松江区)の張弼・董其昌・陳繼綬といった、書道史を飾る明代中後期の大家の名品が並びます。
③ 明末清初の名家の条幅作品が充実!
米万鍾・張瑞図・黄道周・王鐸・傅山・許友らの個性際立つ作品が勢揃いします。
④ 大阪会場のみの限定開催
2026年秋、大阪市立美術館だけの特別な機会をお見逃しなく。
主な展示作品
祝允明(1460~1526年)
右手の指が六本あったので、枝山・枝指生と号しました。幼いころから晋唐の書の臨書にはげみ、後には宋元の書までに及びました。作風は幅広く、鍾繇や王羲之などを学んだ小楷から、晩年の狂草まで、数多くの名品を残しています。同郷蘇州の後輩、王世貞は「天下の法書、吾が呉(蘇州)に帰す。祝京兆允明最と為す」と評しています。
力強く古風な筆法。字と行が絶妙なバランスを織りなす8mの大作「草書蚕衣五篇」(部分) 明時代・嘉靖元年(1522) 28×830cm 日本初公開
自跋によると、成化戊申(23年、1488、29歳)に作った「蚕衣」五篇を、嘉靖改元壬午(元年、1522、63歳)の時に揮毫したといいます。連綿を用いない「独草」で書かれた8m以上に及ぶ長巻で、全編にわたり古風な趣が漂い、用筆は力強くも流麗さを失わず、それぞれの文字と文字、行と行が見事な呼応を見せています。末尾の跋には「章草」という、隷書を早書きした木簡などに見られる書体が用いられています。
文徵明(1470~1559年)
字は徴仲、号は衡山。翰林院待詔という官に就いたので文待詔とも呼ばれます。詩文書画いずれも善くし、温厚で清廉な人柄と、九十歳の長寿を保ったこともあって、蘇州芸苑(芸術界)の中心として活躍し、多くの門人や追随者を生みました。その書は晋唐のほか、宋の黄庭堅や元の趙孟頫などを学び、精巧な小楷から軽快な行・草、篆書や隷書に至るまで多くの作品を残しました。
陶淵明の詩を王羲之+趙孟頫風に書いた長巻「行書陶淵明飲酒詩」(部分) 明時代・嘉靖34年(1555) 29×481cm 日本初公開
陶淵明の五言古詩「飲酒」二十首を5m近い長巻に揮毫したもの。末尾に「乙卯七月三日書、徵明」とあり、嘉靖34年(1555)86歳の作とわかります。「集王聖教序」にやや趙孟頫風を交えた、晩年の熟達した書きぶりです。ちなみに京都国立博物館にも「飲酒」詩二十首を書写した巻子があり、そちらは前年の「甲寅七月朔」の作で、同様な書風を示しています。
董其昌(1555~1636年)
蘇州に次いで明朝後期に繁栄をみせたのが華亭(今の上海市松江区)で、その中心となったのが董其昌です。字は玄宰、思白・香光と号しました。官は礼部尚書という大臣に昇りましたが、強欲な性格で民衆の焼討にもあいました。一方、書画を善くしたばかりでなく、理論や鑑賞にも優れて、後世への影響が大きく「芸林百世の大宗師」と称えられました。
独自の書論と王羲之臨書が併存した、流麗秀逸な作「草書論書与臨王羲之十七帖」(部分) 明時代・万暦35年(1607) 25×540cm
前段は書論を述べた部分で、趙孟頫の書の至らなさを指摘し、顔真卿・柳公権・楊凝式らを称えています。「十七日…」以下が王羲之の「十七帖」の臨書で、明の呉廷が刻させた名法帖として高い『余清斎帖』を見ながら、そのうちの15帖を書いています。臨書とはいえ力強さに奔放さを備え、率意による流麗秀逸な趣を備えた作品に仕上がっています。丁未は万暦35年(1607)、53歳の書です。
王陽明(1472~1529年)
名は守仁、陽明の号で広く知られています。それまでの朱子学に対して、「心即理」「知行合一」などを提唱して陽明学を創始し、江戸から明治期の日本にも大きな影響をあたえました。また軍事に通じ、政治家としては兵部尚書(軍事を掌る大臣)に昇りました。書では、王羲之の32世の孫とも言われ、「集王聖教序」などを学んで「清勁絶倫」(すっきりとした力強さが群を抜いている)と評されます。
一気呵成に書き上げた「清勁絶倫」な力作「草書七言詩」(部分) 明時代・正徳14 年(1519) 33 ×4 42cm
日本初公開「泊金山」ほか七首の七言詩を鋭い筆法で一気呵成に書き上げた、まさに「清勁絶倫」の評語に相応しい一巻です。落款に「陽明山人薄陽(江西省九江)の舟次に書す。時に正德己卯(14年、1519)臘月(12月)四日なり。」とあります。この年の6月、明の皇族で寧王として江西省南昌に封ぜられた朱宸濠が、正徳帝の帝位篡奪を計画して大規模な反乱を起こしました。これを聞いた王陽明は軍を率いて向かい、巧妙な作戦により一か月余りで平定し、大きな功績を残しました。
張瑞図(1570~1641年)
号は果亭・白豪庵など。二水とも号したことから、水星の生まれ変わりでその書を掛けると火除けになると言われました。董其昌と同じく礼部尚書に昇りましたが、権勢を振るった魏忠賢が失脚すると、その生祠(存命中の人を祀った祠)の扁額を揮毫したかどで官を去りました。その書は筆を鋭く左右に振り動かすものや、強靭な筆力で豪快に書き下ろすものなど、独創性に富んだものなっています。
素早い筆運び、縦に伸びた筆法に注目「草書王世懋詩」 明時代・16~17世紀 165×47.5cm
王世懋(1536-1588)の友人と飲酒する喜びを詠う詩を録す本作は、筆の運びが直線的で角張っており、筆先の切り替えが躍動感に満ち、字形は横に広がり、素早い筆運びを見せています。上下に筆跡が連なる部分はあるものの、一文字一文字は独立しており、各文間隔を詰める一方で、「中」「年」「馴」などの字は縦画を伸ばすことで緊密感を打ち破り、作品全体に開放感をもたらしています。
宋玕(1576~1632年)
隸書復興の先駆者「隸書黒児像賛」 明時代・万暦45年(1617) 188×32cm 日本初公開
字を比玉といい、荔枝生・荔枝虫と号しました。書は隸書の八分に長け、「夏承碑」に範をとったといい、清代における隸書復興の先駆者として尊ばれています。画は米芾親子や呉鎮・黄公望の影響を受けつつも、特定の流派に属しませんでした。30歳の時、南京の国子監(最高学府)へ学びに行くことを決意し、杭州・蘇州など各地を遊歴しましたが、最後は南京で亡くなりました。
隸書で書かれた賛に、飼い主と愛猫との悲哀のエピソードが記されています。「黒児」とは、雀子鎮先生が飼い大変可愛がっていた猫のこと。先生が外出するたび戸口まで見送り、帰宅すると履物の音を聞いて跳び上がって駆け寄り、先生も喜んで食事を共にしました。ある日先生が病に倒れると、黒児は付き添い寝床を離れず、先生が亡くなると棺の周りで悲しげに鳴き、ついに何も食べずに棺の下で息絶えました。先生の息子は、これを葬り「黒児塚」と名付けました。
倪元璐(1593~1644年)
字は玉汝、鴻宝・園客と号しました。天啓2年(1622)に科挙に合格して進士となりましたが、黄道周・王鐸も同年です。権勢を振るって失脚した魏忠賢の遺党を攻撃し、その剛直さで知られました。一時は官を離れるも復職し、崇禎16年(1643)には戸部尚書になりました。しかし翌年2月に李自成の反乱軍が北京を陥れ、崇禎帝が自害すると、後を追って自縊し、国に殉じました。
筆の速度と乾湿で変化をつけた、沈着かつ重厚な風格「行書李商隱詩」 明時代・17世紀 156×43cm
晩唐の李商隱の詩で、月夜の美しい仙人の住み家を詠います。倪元璐も明末にあって個性の強い書境を拓きました。本作のように晩年に近くなると、硬い筆を擦りつけるような運筆で頓挫をくりかえし、速さはあるも急ぎすぎず、粗密のバランス絶妙にとり、墨法の乾湿によって変化をつけ、沈着かつ重厚な風格を生み出しています。
王鐸(1592~1652年)
字は覚之、石樵・痴庵などと号しました。明朝では崇禎17年(1644)に礼部尚書となりましたが、赴任する前に北京が陥落してしまい、南京で即位した福王のもとで東閣大学士となります。しかし、清軍が南下すると降伏、順治3年(1646)には清朝に仕えて同6年に再び礼部尚書となります。二つの王朝に仕えたため、後世「弐臣」に列せられて非難されることになりました。
王羲之の原本にとらわれない、自在な「連綿草」の作品「臨王羲之意適帖」 明時代・17世紀 254×49cm
王鐸は「唐宋の諸家はみな王羲之・王猷之に源を発する」と考えており、その書作は二王の体系を骨格とし、宋の太宗が歴代の名蹟をまとめた『淳化閣帖』などの臨書を徹底して行いました。本作のように、長条幅に臨書する時は草書で書かれることが多く、字形は原本から離れ、字句の脱落など構わず、しばしば自在な連綿を用いて、筆力に富み感情をほとばしらせるかのような雄渾な作品を生み出しました。
傅山(1607~1684年)
酒に酔った勢いで筆を走らせた、躍る書「草書醉後浪書」 明~清時代・17世紀 197×58cm
傅山の書で最も有名なのは、大胆な連綿草の作品ですが、小楷をはじめ、古文や篆書といった様々な書体も善くしました。本作はとりわけ異彩を放つ一点で、酒に酔った勢いで、情緒を込めて奔放に筆を走らせています。力強い筆致で線は途切れることなく連綿と伸び、一部の画は、最初は墨が濃く重厚ですが、瞬時に細く枯れた筆致へと変化し、心のままに書き上げられています。
crossorigin="anonymous">






コメント