【The Evangelist of Contemporary Art】2026年2月ロサンゼルスで開催された3つのアートフェアからアートマーケットの地殻変動を読む その3
3.Post-Fairはカッティングエッジのエリート主義を捨て、本気でポストのポストを目指すのか?
ロサンゼルスのダウンタウンから太平洋岸のサンタモニカまで自動車で20分、電車では1時間。Post-Fair(1~3)は、そのサンタモニカの元郵便局で2025年から開催され、今年で2回目を迎えた新しいアートフェアである。ちなみにFrieze Los Angelesはロサンゼルス市内ではなくサンタモニカ空港で開かれ、Post-FairはメインのFrieze Los Angelesのサテライト・フェアの位置づけにある。
本フェアを主催するのは、ロサンゼルスでもっとも最先端(カッティングエッジ)のアートに取り組むことで知られるChris Sharp Galleryのギャラリスト、Chris Sharp。フェアの全31出展ギャラリーのうち、日本から3軒のギャラリーが参加している。Misako & Rosen(4~7)、Tomio Koyama(8~11)、Kayokoyuki(12~15)。海外で開催されるアートフェアで、日本の参加ギャラリーが全体の1割を占めるのは珍しい。ちなみに去年は、この3軒に加えて4649も出展していた。
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最先端のギャラリーが主催しているので、当然、世界の最先端ギャラリーがこぞって参加し作品を誇示するのだろうと思いきや、去年と今年を観て、逆にアートの最先端の存在を疑うギャラリーを糾合したフェアのように思われた。その理由は、主催ギャラリーのChris Sharpの展示が、率先して最先端を疑う作品(16~21)だったからである。それらの絵画に最先端を開拓する野心はまったく感じられない。では、なぜ最先端を疑うのか? ロサンゼルス市内にあるSharpのギャラリーの展覧会が一貫して最先端のアートを提示しているのに、そのギャラリーのオーナーの主催するアートフェアが、当の最先端を疑うとは?!
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とはいえ、その態度は間違っていない。なぜなら最先端を模索するギャラリーであれば、余計に最先端の本質(最先端とは何か?)を疑うことは自然の成り行きであり、最先端を見極める思索と実践を怠らないことが、つねに最先端であることにとって重要だからである。この徹底した懐疑主義こそ、岐路に立たされている現在のアートに不可欠な態度ではないか。
しかし、さらに一歩踏み込んでみるなら、そのような疑惑が生まれること自体、最先端が不在(空白)であることを逆照射しているのかもしれない。
アートの歴史を遡れば、アートの未知の領域を開拓するアヴァンギャルドが消滅して久しい。モダンアートの終焉に伴って、その形成の歴史に貢献してきたアヴァンギャルドが退場し、その後に出現した最先端のアートはアヴァンギャルドの死の代補として機能し、歴史の終わりのポストモダンの活動を支えた。だが、アヴァンギャルドと最先端には決定的な相違点がある。進歩主義のモダンが潰えたからにはアヴァンギャルドにつき纏うオリジナルのアウラも消える。アートの規範から逸脱するアヴァンギャルドがオリジナルとしてアイデンティティを回復(名誉挽回)する機会がないのが、ポストモダン以降のアートの厳しい宿命である。したがって、現代において最先端のアートは再帰なき一過性の快楽の報酬に賭ける。そうであれば、ポストモダンの終わりは最先端の終わりも宣告するのではないか? 最先端は、進歩主義のアヴァンギャルドとは違い、進歩なき時代のポストモダンにおける刹那の新奇さ、言い換えればたちまち霧消する新しさの閃きを美的価値にする表現に付与された名辞である。その最先端がないということは、この不可逆的な束の間の新奇さがなくなることを意味する。モダンの進歩もポストモダンの新奇さもないリテラルな反復に収斂する苦境の時代のアートを手探りで模索するのが、Post-Fairに課せられた重い使命だろうか? 一介の小アートフェアに、そこまで背負わせるのは酷というものだが。
ちなみに、アヴァンギャルドを実践したアーティストとは異なり最先端を開拓するアーティストはアートワールドでは生活の心配のないエリートなので、ポスト最先端のアートは必然的にポスト・エリートのアートになる。ポスト・エリートはポスト・インテリジェンスであり、それが主導するアートは懐疑主義を根底に潜ませた感性によって構成される表現となるだろう。
最先端のないポストモダン以降のアートで、懐疑があるなしにかかわらず最先端であろうとする自己矛盾のアートフェアは、結局何を志向するのか? Felix Art Fairは加速主義を達成するために戦略的に最先端を放棄したが、最先端を僭称するFrieze Los Angelesは、その最先端は形骸化していた。Post-Fairは最先端に懐疑主義で応答するが、私の仮説が正しければ、その真意は逆説的に最先端の《実質》(実体と本質の統一)を掴み取ることである。
Post-Fairの主催ギャラリーであるロサンゼルスのChris Sharpに展示された絵画は、《実質》があるようでない(ないようである)。過去のモダンアートには《実質》が明確にあった。モダンの後を襲ったポストモダンは、それに成功したかどうかは問わないとして、《実質》を拒否することで《実質》への権利を優先的に担保した。ポストモダンの終焉後、アートを諦めるのでなければ真偽にかかわらず《実質》を完全放棄できないので、《実質》の周囲を旋回する実質でも非実質でもない表現に逢着する。
かくして、ポストモダン以後のアートは最先端ではないにもかかわらず、オリジナルではない《実質》の悪霊に取り憑かれたように振る舞う。その試みのいくつかを紹介すると、実質が表現される形式の廃墟の上に表現を構築することを企図する。その典型が、Post-Fairで展示するギャラリーはなかったが、Sabine Moritzの最近作(22)である。現在、内容に実質を埋め込む表現が、ビエンナーレに代表される国際展の主流になっている。それを潔しとしないコマーシャルのアートシーンは、実質でも非実質でもない、反対から言えば実質と非実質のアンビギャスな表現(最先端の臨界点)を探索する。その一例が、SharpがPost-Fairで提示した絵画である。この実質と非実質の二重構造の作品は、ユーモアもアイロニーも醸さない。実質であるのかないのか不明で曖昧なのが、この絵画の際立った特徴なのだ。それは、この両義性でしか《実質》を測量できない暗黒世界のアートである。
ところで、《実質》
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(文・写真:市原研太郎)
■今までの市原研太郎執筆のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/













































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