【The Evangelist of Contemporary Art】ピース・トライアングル:2025年から2026年にかけて東南アジアとオーストラリアで開催された3つのビエンナーレ その3 美術評論家 市原研太郎
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【The Evangelist of Contemporary Art】ピース・トライアングル:2025年から2026年にかけて東南アジアとオーストラリアで開催された3つのビエンナーレ その3 美術評論家 市原研太郎

前回(その2)の続き https://tokyo-live-exhibits.com/blog112/

3.25th Biennale of Sydney: Rememory(非常事態下のアート)

[1]プロローグ

 去年名古屋市と瀬戸市を中心に開かれた国際芸術祭あいち2025(以下、あいちと略記)の企画に携わったUAE出身のHoor Al Qasimi(フール・アル・カシミ)が、年をまたいで今年のBiennle of Sydney(シドニー・ビエンナーレ)のキュレーターを務めている。
 ということで、あいちとの比較は当然として、シドニー・ビエンナーレの得意分野といってよいエコロジーや先住民のテーマとの絡みを手掛かりに展評を試みる。
まずは、メイン会場のArt Gallery of NSW(ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館、以下NSWと略記)(1)から。
 国際芸術祭あいちは、突出したラディカルな表現を扱えないのでオーソドックスな現代アート作品(それでも鑑賞者に熟考を迫るには十分な強度があった)が大半を占めただけに、ビエンナーレで毎回、エコロジーや先住民に関してラディカルな表現を提示して鍛えられているシドニーは、どのような構成の展示になるのだろうか?

[2]異例の撮影✕の作品について

 メイン会場の1つ、NSWを観て、シドニー・ビエンナーレ(3)は、同じキュレーター(両方ともアーティスティック・ディレクターが正式名称)のカシミが企画を担当したあいちとは、かなり趣きが異なる。まず、各々の国際展に選抜されたアーティストがずいぶん違う。展覧会のテーマが変われば、出展アーティストが異なるのは当たり前としても、表現の硬軟ともに対処できるカシミの引き出しの多さと懐の広さが窺えるあいちとシドニーの国際展だった。

 シドニー・ビエンナーレの鑑賞を始めて、NSWの本館(新館はSANAAの設計)に展示された冒頭の2作品(2~7)のあまりのナイーブさとシンプルさに、拍子抜けした。しかし、以下に説明する理由により、これが展覧会をキレキレにした。この特徴、ナイーブさとシンプルさにおいて比類のないビエンナーレだったのだ。

 展覧会の内容は、シドニーの18番と言ってよいマイノリティ(とくにオーストラリアの先住民族であるアボリジナル)の主体性のテーマとエコロジーの題材を、ビエンナーレに取り上げることは至上命令であるにしても、それらを安易にメインテーマに格上げすることなく、本展の重要な隠し味に用いていた。

 このようにメインテーマの「Rememory」と隠れテーマのマイノリティとエコロジーという複数のテーマが重なって相乗効果が生まれ展覧会に深みが出る。なので、今日の会場のすべての作品に共通するナイーブさとシンプルさが、作品の欠点ではなく逆に長所として機能していた。今ビエンナーレのタイトルにしてメインテーマである「再記憶」の表現に、とりわけ記憶と再記憶の間に作動する心理の通奏低音となっていた。それが表現の土台になることで、心的充実の明確な輪郭が浮き彫りになったのだ。

 その反対の齟齬(欠如)も作品のなかにあった。ナイーブでシンプルということは問題にストレートに斬り込むことなので、Kuba Dorabialskiの映像作品(8)で、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時にサラエボで起きたことは、その都市に長らく住む市民にとって記憶から拭い去りたい辛い悲惨な出来事であり、それがナラーティブとはいえ再記憶、つまりその心の傷をまさぐられることに、サラエボの住民はいたたまれない複雑な気持ちになる。記憶と再記憶の間に想起が差し挟まれることで、それを抑え込もうとする拒否反応が生じるのだ。作品のナラーティブが、元々事実であることをフィクションに仕立てるというプロット自体に冒瀆的なものを感じるのだが。

 新館(9)の会場に展示されたKapwani Kiwanga作品(10)の複数の花束は、それが捧げられる過去のアフリカの歴史的事件が、現在タブーになっているか、または政治的な論争の的になっている。あるいは放置されたブーケが萎んだり枯れることが、図らずも体制批判と受け取られる。いずれにせよ、各作品と昨今の政治的情勢とのダイレクトな結びつきに主催者がかなりナーバスになっていることは間違いないだろう。

 であれば、パレスチナ出身のTaysir Batniji のソープ(石鹸)の作品(11)はなおさら、その表面に刻まれたアラビア語の諺「どんな状況(condition)も永遠ではありえない」とともに、ガザの現在の紛争にダイレクトに言及し、暗にイスラエルのジェノサイドを批判している点で、本作品は撮影✕のコンディション(きっかけ)になっている。現実とアートのギリギリの政治的攻防が展覧会の舞台裏で繰り広げられていることが、ひしひしと伝わる撮影✕(従来のシドニー・ビエンナーレで撮影✕はありえない)のDorabialsk、Kiwanga 、Batniji の3作品だった。今ビエンナーレは、それほど非常事態下のアートなのだ。

[3]ビエンナーレ鑑賞の序盤、ナイーブとシンプルでいきなり現実に突き落とされる

 [2]で説明した今シドニー・ビエンナーレのナイーブとシンプルの特徴は、ビエンナーレ最大の会場、市内にある元火力発電所を改装してイベント・スペースとして利用しているWhite Bay Power Station(12、以下パワー・ステーションと略記)にも通底していた。

 タービン・ホール側のエントランス(13)からビエンナーレ会場(14)に入ると、次第にマイノリティの声が大きくなるよう作品が配置されている。エントランスに接して中国出身のHui Yeが制作した2チャンネル、2スクリーンに映し出される台湾の先住民族のリリカルにも力強い姿(15、16)。その奥にアメリカの先住民族のアーティスト=アクティビスト、Autumn Chaconのサウンド・インスタレーション(17、18)。そこから響いてくるのは、他のノイズに交じって北欧のサーミ人のくぐもった独白の声である。

 ・・・と思う間もなく、いきなりビエンナーレの本丸に飛び込んでしまったかのような衝撃的な作品に遭遇した。前述のサウンド・インスタレーションから発電用設備の機械のジャングル(19)を抜けると、そこで待ち構えていたのが台湾のヴィデオ・アーティスト、Chen Chieh-jen(陳界仁)のヴィデオ・インスタレーション(20~25)だった。
しばらく音沙汰がないと思ったら、陳界仁の映像がこんなことになっていようとは?! それは、彼の近作の集大成と、人間が消えた近未来に「システム」から突き落とされて棄民となった底辺の人間を物語る非情な現実のインスタレーションだった。

[4]シドニー・ビエンナーレ自慢の巨大会場で、ビエンナーレの裏事情を推察する

 前の章からの続き。White Bay Power Stationは、予算の削減(非常事態)が展覧会に及ぼす影響がモロに出た会場ではないか? ビエンナーレの招待アーティストと参加作品の数が減少したのではないか、というのが私の憶測である。

 それが物理的に分かるのが、パワー・ステーションのボイラー・ハウス側のエントランス(26)から入ったときである。タービン・ホールとは違いボイラー・ハウスは、機械類が撤去された跡の巨大スペースは、ガランドウの暗い洞窟のような空虚(27)である。

 シドニー・ビエンナーレは、以前ならこの巨大な空虚に対抗して作品を詰め込む。空虚を全面的に塞ぐことはできないにせよ、近代の重厚長大な産業の記念碑に取って代わるアートのパラダイスを演出しようとしてきた。ところが今回、そのボイラー・ハウスの1階は、残された発電所の設備を除けば5作品とカフェに占められているだけで、巨大スペースはその空虚を持て余しているといった風情だった。階段を上って2階のスペース(28)もまた5作品のみの展示で、空きスペースはビエンナーレのプログラム(29)やワークショップ(30)に使われている。その分、タービン・ホールに展示作品を片寄せ機械類の合間に作品が埋め込まれるといった印象(31、32)だった。

 50年に及ぶシドニー・ビエンナーレの足跡が栄光に包まれているとすれば、このビエンナーレが具現する表現の自由と、その自由に支えられて特定のテーマを究めるのに十分な裏打ち(予算)があったからである。シドニー・ビエンナーレの最大の功績は、その間にアボリジナルのアーティストを育て、いわゆる伝統的なアボリジナルの絵画(33、34)や彫刻ばかりでなく、現代アートの分野でオーストラリアの白人たちを凌ぐ勢いのアーティストを多数輩出したことにある。今やアボリジナルのアーティストの作品は、どのようなテーマであれシドニー・ビエンナーレに不可欠な展覧会のハイライトとなった。

 白人の実力を越えた優れた才能を持つアボリジナルのアーティストが至るところにいる。そんな感想の真実味を増すほど、近年のシドニー・ビエンナーレは、アボリジナルのアーティストの活動の成果が看板メニューとなってきた。当然、2026年のシドニー・ビエンナーレにも大挙して作品を提供している。ギャラが廉価なので低予算の展覧会に呼ばれるのではない。過去に主人だった白人より能力が勝っているから、ビエンナーレも真っ先に呼ばざるをえない。以上、アボリジナルのアーティストをめぐる偏見を払拭しておくことが大事であると考え、彼女ら/彼らを弁護した。

 まず、今ビエンナーレに展示されたアボリジナルをルーツに持つアーティストの1人、Natalie Daveyのヴィデオ作品(35、36)を紹介すれば、彼女の生きる周囲の現実世界が、そのままアートになっている。現実がアートになること自体素敵だと思う。洪水が題材なので喜べないが、映像のなかのアーティストはそれでめげる器ではない。過去にもっと酷い仕打ちを受けてきたからには肝が座っているのだろう。

 さて、パワー・ステーションの会場で政治的な圧力に負けまいと、政治性を前面に出して闘争や批判を描き出したのが、Bouchra Khalili(37~39)とMarianne Keating(40~42)である。両方のヴィデオとも秀逸だったが、前者が撮影✕となったこと、それらの主題は現在の闘争ではないことが残念である。現在の過酷な差別と搾取を批判し闘争する作品が観たかった。これを成し遂げたアーティスト(今ビエンナーレでは先述のChen Chieh-jenのヴィデオ・インスタレーションがそれに当たるが、現代としてはあまりに重すぎる雰囲気である)はChen Chieh-jen以外にいないと思うが、いずれ現代アートでそれを主題にするアーティストが現れるだろう。

 パワー・ステーションの巨大な空間を埋める作品の規模と数が明らかに足りないとすでに指摘した。スカスカな空間では、作品がまったく映えない。それでも、個々の作品には見るべきものがある。なかでもとりわけ注目したのは、前述の反資本主義のラディカルな表現を展開したKhaliliのヴィデオである。できれば過去の歴史的段階にある資本主義(会場の発電所がフル稼働していた時代の)ではなく、ヤニス・バルファキスに言わせると資本主義はテクノ封建制へと移行している。人間を奴隷か無給の農奴にするこの過酷な経済体制をリサーチした最新の批判的作品があって欲しかった。とはいえタービン・ホール2階に展示した、もう1人のKeatingはアイルランド人の移民史が複雑に政治と権力に絡んで多くの犠牲を払ったかを暴き出し、Khaliliは資本主義への社会主義的批判を徹底する1970年代のアーティストの活動をスタイリッシュに表現して素晴らしかった。

 ハーバーフロントの高層ビル群(43)に居住する超富裕層に象徴されるテクノ封建的権力がふんぞり返っている様をいつまでも見せつけられることは、アートに携わる者にとって心苦しい。現代世界に対してアートの無力を思い知らされることは、もうこりごりである。

 いずれにせよ、今ビエンナーレのキュレーター、カシミは本当に頑張ったと思う(その工夫は、これから言及するシドニー市内と郊外の公立の美術館やギャラリーの展示に結実していた)。削減された予算で優秀なアーティストを選抜し、アーティストの意図通りに作品を提示する。だが、その努力にも限界があった。最大の会場の元火力発電所、パワー・ステーションのボイラー・ハウスの巨大スペースは、シドニー・ビエンナーレに特長的な作品同士が犇めいて生まれるエネルギーの爆発に欠けていた。キュレーターもそれを察知し、手持ちのエネルギーをタービン・ホールに振り向け、その1階と2階のスペースに重点的に作品を投入したのではないか?

[5]ビエンナーレで見つけた! 理想的なギャラリーの理想的な展覧会を

 シドニーの郊外、オーストラリアのプチブルが住む一戸建ての住宅街を貫いて延びる道路を辿って、20分。川沿いの通りに面して、シドニー・ビエンナーレの会場の1つ、Lewers: Penrith Regional Gallery(44)はある。この施設の複数のスペースを占めるシドニー・ビエンナーレ(45)の作品のうち、このギャラリー(46)に展示された4作が、シドニー市内の会場のどの作品よりも素晴らしかった。以下、その寸評である。

 Wendy Hubert(47)の絵画(48)を観ると、つくづくオーストラリアはアボリジナルの人々のものだと思う。広大なオーストラリアで移動生活を送る老婆の描く絵画作品があまりに魅力的だったのだ。アボリジナルのアーティストが、オーストラリアのマジョリティの白人アーティストより優れていることを確認。

 アイルランドのDeirdre O’Mahony(49)による非人間の植物、動物の循環するエコシステムをテーマにしたミュージカル(50)は、紛れもない名作だろう。
Nora Adwan(51)の陶器のザクロ(52)から漏れる子供たちの声とクスクス笑いを追いかけても、絶対捕まらない。こちらからあちらへと逃げ去っていく。

 イギリス人アーティスト、Keith Piper(53)のインタビュー作品(54)は、クリケットを各国の国際関係に見立て、旧宗主国と旧植民地のクリケットのマッチは、旧植民地の人々にとり土=幽霊=魂を取り戻す闘いだと雄弁に主張する。

 これらの作品を鑑賞して今シドニー・ビエンナーレのナイーブさとシンプルさが、郊外のギャラリーに着実の拡散し浸透していることが明確になった。

[6]シドニー郊外の美術館は、現下の世界情勢に一石を投じることができるか?

 シドニー郊外にあるCampbelltown Arts Centre(55)で開催されているシドニー・ビエンナーレは、Rememory(56)のテーマとマイノリティの裏テーマ、とはいえ先住民より移民・難民に肩入れした作品、そしてマイノリティにとって身近で差し迫ったイッシュー、incarceration(投獄、57)を感知できる作品が集められた。

 殺人容疑で逮捕されたアーティスト夫婦を文字通りの監獄から救出する仲間たちの運動を追ったドキュメンタリー写真(58、59)、刑務所で服役している犯罪者への果敢なインタビューの音声が、彼らの写真とともに展示される(60、61)。これらの作品を観ていると、特段法を犯しているわけでもない鑑賞者の私まで投獄されている気分に襲われた。

 また、オーストラリアへ不法入国を試みて悪名高い収容所に拘留された挙句、本国に送還されたレバノン人のインタビュー映像(62、63)が投影され、極めつけに少年刑務所に収監されているアボリジナルの未成年の若者の収容所での非人間的な扱いを暴露したインタビュー映像(64、65)もあった。

 Campbelltonのギャラリーは、ガザのジェノサイドに直接言及して批判するものはなかったが、パレスチナにルーツを持つ2人組のアーティストの傑作、パレスチナへの帰還を物語る映像インスタレーション(66、67)が、国際芸術祭あいち、ホイットニー・ビエンナーレ(ニューヨーク)に続いて、シドニー・ビエンナーレにも展示されていた。パレスチナ-イスラエル紛争の渦中でBasel Abbas & Ruanne Abou-Rahmeのオンゴーイングのプロジェクトは、あいちは望郷の側面、ホイットニーはパレスチナのエコシステムの側面、シドニーは闘争の側面が、それぞれ強調された映像インスタレーションの構成内容だったと思う。

[7]エピローグ: アートワールドはパレスチナを救うことができるか?

 パワー・ステーションの会場の項でコメントしたが、本ビエンナーレは個々の作品に見るべきものがある。メインの会場(NSWとパワー・ステーション)以外の郊外の2つのギャラリー、そしてシドニー滞在最終日に観たシドニー大学付属美術館(68)に展示された個々の作品も素晴らしかった。

 美術館らしく様々な解釈を検証する場であると述べるビエンナーレ(69)のキュレーターの解説(70)のごとく、様々な解釈が生まれる不思議な作品が並んでいた。しかも、これらの作品のなかにはパレスチナがキーワード、すなわちアーティストやそのグループがパレスチナで生まれたり(71~74)、作品のモチーフとしてパレスチナが明示的、暗示的に参照される作品(75~79)が飾られていたことは、この美術館がガザへのイスラエルの侵攻によって政治問題となっているパレスチナの悲劇的な状況から逃げていないことを顕示して清々しかった。それによってスポンサーの一部が支援を取り下げ、本ビエンナーレに影響を及ぼすことがあるにせよ、ビエンナーレとして筋を通す姿勢は全面的に支持したい。
それを応援するかのように、連休最終日の美術館は数多くの来場者で賑わっていた。しかも、この美術館を訪れる市民は、50年に渡るビエンナーレの実績を十分理解した上で、今回のビエンナーレを鑑賞していると感じさせる真摯な態度で展示作品に接していることに好感を抱いた。

 25th Biennale of Sydney: Rememoryの投稿の冒頭で、同じキュレーターが企画を担当した国際芸術祭あいち2025に触発されてシドニーに来たと綴ったが、あいちに劣らず、いやあいち以上に現代アートの鋭い問題提起をしていたという意味で緊張感のある25回目のシドニー・ビエンナーレだった。

 世界的な非常事態(戦争の時代)の下で様々な問題を抱えつつも素晴らしい展覧会を実現した2026年のシドニー・ビエンナーレとそのキュレーターのHoor Al Qasimiに、心より敬意を示したいと思う。

(文・写真:市原研太郎)

■今までの市原研太郎執筆のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/

Kentaro Ichihara
美術評論家
 1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。現在は、世界のグローバルとローカルの現代アート情報を、SNS(Twitter: https://twitter.com/kentaroichihara?t=KVZorV_eQbrq9kWqHKWi_Q&s=09、Facebook: https://www.facebook.com/kentaro.ichihara.7)、自身のwebサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)、そしてTokyo Live & Exhibits: https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/にて絶賛発信中。

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