【The Evangelist of Contemporary Art】ピース・トライアングル:2025年から2026年にかけて東南アジアとオーストラリアで開催された3つのビエンナーレ その1 美術評論家 市原研太郎
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【The Evangelist of Contemporary Art】ピース・トライアングル:2025年から2026年にかけて東南アジアとオーストラリアで開催された3つのビエンナーレ その1 美術評論家 市原研太郎

1.シンガポール・ビエンナーレ2025: pure intention(ビエンナーレは都市へと浸透する)

[1]主要会場のシンガポール美術館1から鑑賞を開始する

 改修中のSAMの仮住まいの倉庫(2)は、私が前回のシンガポール・ビエンナーレ2022を訪ねたときと変わらず湾岸の同じ場所だった。ただ今回は、メイン会場のSAMの展示は小規模(Gallery 1のみ使用、3)にとどめ、会場が都市部へとさらに拡大して、シンガポールという世界の最先端の大都市を背景としたビエンナーレ色を強くしている。

 今ビエンナーレは、「pure intention」(4)という小文字のタイトルからして不可解である。小文字なのはポストモダンの「小さな物語」に由来すると解釈し、前回のビエンナーレからの流れだが、それを直訳すると純粋意図(意志ではない)。タイトルつまりテーマを具現しているSAM(ちなみにこの会場につけられたサブタイトルは「Intention to Wonder」)の展示作品を参照すれば、それは人工的に作られた霧(56)か、それとも氷が溶けて流れた跡の残る水(78)か? はたまた焼け焦げた匂いのする炎(910)か? もっと不気味に放射性物質が刻印する鬼火のような光の痕跡(1112)か?

 謎めいた作品が多いとはいうものの全体的に大人しい作品(1314)が揃っていた。それ自体は悪いことではない。が、今年開かれた国際芸術祭「あいち2025」と比較しても、現代のビッグイッシューであるマイノリティやエコロジーを重点的に取り上げるでもなく、一体何が問題なのかと言いたくなるほど、この純粋意図は私にとって不可解で曖昧なままだった。

 何を言いたいのか分からない現象は、今回に限らず前回のシンガポール・ビエンナーレで観たSAMの展示でも同様の印象を抱いた。しかし、前回が「小さな物語」というポストモダンに関連するテーマであることに気づいた瞬間、展示作品に共通項が見つかりとりあえず安堵した記憶がある。

 ところが今ビエンナーレは、会場の趣旨説明(4)は短すぎて、その手掛かりになりそうにない。Gallery 1で鑑賞した作品のうち、この会場でベスト3に入ると思った3作品が偶然重なる境界領域を探っていたとき、これらの作品には支柱たる物質的なものがないことに思い至り納得できそうな想念が浮かんだ。

 3作品の合間に展開されていた世界とは、有機と無機の出会い(1516)によって見えないコンフリクトが生じ、その両方を相手に労働の新陳代謝(1718)があり、それと対峙する手仕事のファブリック(1920)がある。その複雑な絡み合い(2122)が、キュレーターの述べる矛盾(の現れ)なのではないか。しかし、この矛盾が弁証法的にアウフヘーベンするのでも、無理やり融合(合成)されるのでもなく、しかもハイブリッドで安定することもなく、対立したまま辛うじて静止している。それが、今ビエンナーレのデフォルトの状態ではないか? そして、そこから派生した様々なミュータントが大都会シンガポールに広がっていくという想像が脳裏に浮かび上がった。

 とはいえ、私の今ビエンナーレの期待の元になっていた前回の光州ビエンナーレと近年のヴェネツィア・ビエンナーレの両シンガポール・パビリオンで、シンガポールのアーティストの目覚ましい創作力に接してきた私としては、まだ物足りなかった。確かに、今ビエンナーレはシンガポール人アーティストばかりではなく、またアートをめぐる厳しい状況下で参加アーティストは頑張ってはいた。だからなおさら、切迫感が不足していると感じられたのだ。金融(数字)を超えた実体なき資本主義に完全に征服されたシンガポールの現況に関する自覚がない。物価が欧米なみに高騰し、美術館の入場料が3000円以上(シンガポール・ビエンナーレの場合、SAMのみ料金を徴収しているので他会場は無料で鑑賞できる)で館内は閑散としている。これは端的に美術館の終焉だが、それはたちまちアートの終焉へと飛び火するだろう。おそらく不効率なアートの消滅を画策しているのが現在の資本主義であり、その陰謀に組み込まれている都市に、アートの生き延びる術はない。

 現在、シンガポールがそのなかで勝ち組に見えようと、資本に組み伏せられてそのおこぼれに与っているに過ぎないからだ(対立するものだけでなく無駄なものは一切省け)。シンガポールに関して何一つ予言することはできない。ただ1つ言えるのは、日本が衰退し香港が後退した今、アジアで金融を超えて実体のないフェーズに達した無謀な資本主義の矢面に立たされているのがシンガポールであり、今ビエンナーレのようにフィジカルなもの(身体、物体)という土台のない不安定極まりない流動する世界に突入してあがいているのが、シンガポールのアートではないか?

 以上が、シンガポール・ビエンナーレ2025の第一印象である。

[2]やはり熱帯のシンガポールは熱かった―見失われた傑作を求めて

 MRTCommonwealth駅周辺のRail Corridor地区(23)のビエンナーレは、サブタイトルに「Intention to Love」と名付けられている。その「愛」を求めて自然と人工が隣り合わせに犇めく世界を右往左往した。その間に数回見かけたのが、人造石のベンチの作品(2425)である。これは日常的に使用可能な道具で、誰も座ってなかったり他人や私が休んでいて、それが発するメッセージが伝わらなかったり伝わったりする。

 シンガポール・ビエンナーレ評の[1]で、今ビエンナーレは、特殊な大都市シンガポールが背景になっていると述べた。これを敷衍すれば、この都市のコンテクスト(背景)でビエンナーレが触手を延ばしそのミュータントを増殖させる。したがって、シンガポールは背景(コンテクスト)であると同時に主題(テクスト)となる。現実世界の都市(シンガポール)で、アートはここにありと宣言することで、私も座ったベンチのように世界をほんのわずかでもずらすことができる。それを意識することが大切なのだ。

Rail Cnrridor付近は、濃い緑(26)に囲まれていた。その緑は、自ら動いているように見えるくらい勢いがあった。もしかしたら、これは地球温暖化の影響かもしれない。そうでないとすれば、手厚いケアを受けなければ生き延びられない日本の植物とは反対に、シンガポールの植物は自生する逞しい生命力の持ち主ではないだろうか?

 その自然と人工の対比に関連して、Blenheim Court27)の展示に、自然と人工を鋭く対照した映像インスタレーション(28)があった。都会の人工の水のスペクタクルな落下(29)に集まる市民がいて、その裏には水をめぐる豊かな自然と生活(30)がある。映像から流れる水音の源泉は背後のベールに隠れて見えない自然からのものだった。電源開発による自然の破壊に警鐘を鳴らしつつ、その映像はお説教調になりがちな通俗的な自然と人工の二項対立ではない、自然と人間を育む水の貴重さを認識させてくれる。

 同じ会場に飾られた作品のうち、Allora Calzadilla31)は、なぜ過去作(3233)が選ばれたのか? この建物に展示された作品のすべてが、政治的なステートメントを孕んでいた。この二人組のヴィデオは、米軍の射撃場となった故郷の姿を批判的に語るデモンストレーションとして、オートバイのマフラーにつけたトランペットから流れるけたたましい騒音とカンファレンス机のボートによる海上遊覧とがある。

 アートをいかに政治化するか? それを制限する権力が介入して陰に陽に検閲しにかかる。美術館なら余計にそうだ。今ビエンナーレのキュレーターはシンガポール美術館の学芸員なので、さらに制約があると予想される。

 Allora Calzadillaのようなデモンストレーションを、単なる政治でアートする具体例ではなく、アートで政治するための条件とするには何が必要か? その表現の自由を守るために何をすればよいか? その観点からもっとも優れた作品は、同会場のRiZki Lazuardiの作品(3437)だろう。20世紀後半の冷戦時代、インドネシアの核弾頭を積むミサイル開発に関する歴史的サーベイのオブジェや記録写真やそれらをまとめた映像が傑出していた。

 本展評の[1]で特色がないビエンナーレと形容したが、参加アーティストを見ると東南アジア出身が多い。シンガポール・ビエンナーレは毎回、東南アジアというローカルにフォーカスしている(東南アジアの文化的ハブとしてのシンガポール・ビエンナーレ)。しかも、このローカルは歴史的、政治的に権力闘争が激しい地政学に興味深い地域である。したがって東南アジアは、シンガポール・ビエンナーレに限らずアートにとって重要な題材の宝庫である。

[3]シンガポール随一の目抜き通りを歩いてみれば、私をギャフンと言わせたラディカルな現代アートと鉢合わせ

 シンガポール随一の目抜き通りOrchard Roadは(38)、いつもと変わらぬ賑わいだった。ウィークデイだというのに、大量の群衆が往来しているとは、シンガポール人はよほど暇で裕福らしい。

 シンガポールに出稼ぎに来ている貧しい人々を除き、シンガポールの住民はみな金持ちなのだろう(ちなみにホームレスは見かけない)。欧米並みの物価を考えれば、普通の日本人はシンガポールで生活はおろか観光すらできないのではないか。そういえば、シンガポールを歩いて日本語をほとんど耳にしないのは、昨今の欧米の大都市にいるときと同じ体験である。

 シンガポール・ビエンナーレの3日目は、このシンガポールで一番の繁華街、Orchard Road界隈の会場めぐりをした。貧富の差に違いがあろうと大衆の集まる繁華街で展覧会を開くことは、相当の覚悟が必要だと思う。すでに観た本ビエンナーレのメイン会場の美術館SAMとやや郊外のRail Corridor地区ならば、展覧会目的に訪れる人々が大半だが、鑑賞目的ではない現代アートに無縁で享楽的な大衆に、ビエンナーレはどのようにアプローチしアピールするのか?

 とはいえ、大型ショッピングモールやハイブランドの店舗や有名ホテルが軒を並べるOrchardを訪れる大衆は、富裕層ばかりではない。移民や一般女性も沢山歩いている。また世界の喫緊の課題であるエコロジー問題に直面している人々も少なくないだろう。

今ビエンナーレのキュレーターは、このような大衆の集まる繁華街の会場で、作品のどのようなセレクションをしたのか? 実は、会場となるショッピングモールは、人目を引く華やかなショッピングモールとは異なる、小型の個人商店が犇めく雑居ビル(39)で、その空き店舗を活用して行われていた(4041)。

 この地区の展示は、大衆迎合のエンタメ企画かと思ったらまったく反対で、移民(4244)やエコロジー(4547)の題材を扱ったり、ラディカルなフェミニストの抵抗(アッセンブリ)の映像プロジェクション(4852)だった。この闘争の映像は、アートで政治する最高の作品で、本ビエンナーレのキュレーターは、本気で大衆を啓蒙しようとしていると思わせる内容だった。アジアの美術館は凄いと、改めて実感した次第。[2]で漏らしたキュレーターへの疑念は吹き飛んだ。

 この作品を鑑賞できただけでビエンナーレに満足と思わせた映像プロジェクションは、シンガポールにいる人々の半数以上が潜在的に賛成できるフェミニズムがテーマだったからかもしれない。いずれにせよ、南米のアルゼンチンのフェミニストたちに共感と連帯の拍手を送ります。

 そして、今日最後に観たのが、Orchardから少し離れた高級住宅街のなかにある元女子校の会場(53)だった。作品としてはヴィデオが多かったが、ヴィデオ以外で凄いと思ったインスタレーション(5457)をお見せしよう。

[4]Fort Canningの闘い―多文化主義から政治的なものへ

 世界のアートのトレンドは、多文化主義から政治主義に移行している。その転換期が2010年代だった。そして新型コロナのパンデミックが決定打となり、2020代のアートは完全に政治的意味の探究に向かっている。

 シンガポールは多人種、多民族の国家として多文化主義の政策がアートに浸透し、見事な成果を上げてきた。それが、最近様々なビエンナーレでのシンガポール人アーティストの活躍に繋がっている。だが、同じシンガポール人アーティストのホー・ツーニェンの作品に予言的に現れているように、多文化主義(文化的多様性)では解決できない矛盾(その1つが格差そして差別)が噴出して、世界のどの社会もその対策に苦慮している。

 シンガポールのアートもまた、これまで成功に導いてきた多文化主義の理念では対応できないことを理解し、過去の遺産と化した多文化主義に胡座をかくのではなく、それを解決するアートの試みを今ビエンナーレで取り上げていた。[3]でレポートしたアルゼンチンのフェミニスト、Gabriela Golderの映像は、その最たる例である。

 実はシンガポール・ビエンナーレは、すでに2010年代に政治的な表現のアートを提起していて、すでにその時代から政治的なものの模索が始まっていたのだ。それが、今ビエンナーレで全面化している。なので、アクティビスト的なラディカルな実践でなくとも、今ビエンナーレは例外なく政治主義的な作品が並んでいた。もはや政治なくしてビエンナーレを語ることも、作品が選ばれることもない。表現にまつわるイデオロギーを旗幟鮮明にすること。しかも、シンガポールに限らずどのビエンナーレでも、具体的な事例を詳細に物語ること。これが、政治的アートに求められる基本的な条件である。

 酷暑のCivic District(シンガポールの中心地区)を「Intention to Explore」(この地区のサブタイトル)しつつ、Fort Canning58)で、そのような作品を展示した会場を訪ねた。野外の美しい公園の暑苦しさと比較すると、会場のFort Canning Centre59)は肌寒いくらいに涼しかった。写真(60)が展示風景である。

 炎天下のFort Canningで最後に観たのが、Jacqueline kiyomi Gorkのサウンド付き彫刻(6162)である。この作品は、Fort Canningの主要経路上(63)にあるので、否応なく観光客や通行人の目に入る。したがって、少なからずの人が彼女の作品を眺めるだけでなく、キャプションの説明文を読んでいた。ミドルネームで分かるように彼女は日系のアメリカ人アーティストで、シンガポール・ビエンナーレに招待されたことで、第二次世界大戦初期の日本軍による8日間のシンガポール攻略と陥落(1942年、6465)と、末期の沖縄戦を重ね合わせて戦争の犠牲者への思いを、兵器の断片を組み合わせた彫刻とサウンドのノイズに託している。

(文・写真:市原研太郎)

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Kentaro Ichihara
美術評論家
 1980年代より展覧会カタログに執筆、各種メディアに寄稿。著書に、『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』(2002年)、『アフター・ザ・リアリティ―〈9.11〉以降のアート』(2008年)等。現在は、世界のグローバルとローカルの現代アート情報を、SNS(Twitter: https://twitter.com/kentaroichihara?t=KVZorV_eQbrq9kWqHKWi_Q&s=09、Facebook: https://www.facebook.com/kentaro.ichihara.7)、自身のwebサイトArt-in-Action( http://kentaroichihara.com/)、そしてTokyo Live & Exhibits: https://tokyo-live-exhibits.com/tag/%e5%b8%82%e5%8e%9f%e7%a0%94%e5%a4%aa%e9%83%8e/にて絶賛発信中。

本記事は各施設配布のプレスリリースおよび提供情報をもとに作成しています。

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