【Art News Liminality】新たなる自然の光と恢復の時間―「LOOP Art Hospitality 広がる、人と命の輪」の森を歩く

【Art News Liminality】新たなる自然の光と恢復の時間―「LOOP Art Hospitality 広がる、人と命の輪」の森を歩く

in memory of Tari Ito

 2021年の春、穏やかで静かな光のなかで「LOOP Art Hospitality 広がる、人と命の輪」展が工房親(東京都渋谷区)開催された。2011年から10年間にわたり病院やクリニックなど医療の現場にアート作品を置くというギャラリー主導のプロジェクトは、ギャラリストと病、あるいは生と死、あるいは病院という医療管理システムとの対話と交渉のなかでひっそりと、しかし確かなかたちをもって進められてきた。

 東日本大震災と放射能による大気汚染から新型コロナウイルスの感染拡大まで、エコロジーとテクノロジーの間で人々の生存と自然との共存の可能性が模索された時代にあって、アートはどのようなものとして社会に受け入れられ、人を生かすことができるのだろうか。そのような問いのなかで、田嵜裕季子、橋本佐枝子、松下誠子、宮森敬子、佐藤慶子、イトー・ターリによるグループ展が見せてくれたものとは、テクノロジーのなかで分断された人々の心的な紐帯や感覚を自然の光のなかであらためてつなぎなおそうとする意思のようなものだった。

 《関係性の樹》(田嵜裕季子)は、数年前に経験した病気療養を機に森のなかを散歩するなかで撮影された蔓や樹木の写真作品だ。自然のなかに広がる生命の力を感じながらロゴス(論理)によって切り離されたピュシス(自然)の流れを見直そうとする作家の眼差しは、身体が治癒へと向かうプロセスのなかで自己と他者、人々と生物との関係性をあらためて捉えようとする。力強く絡み合う蔓や木々の枝は人々が手を伸ばし合い、抱き合うようにも、身体の各所に接続されたチューブやカテーテル、生体用の電極コード、錯綜するニューロンや血管、あるいはコミュニケーションのネットワークのようにも見えるだろう。生命を維持し、社会のなかで生活を送るうえで必要不可欠な関係性というつながりは、人々の心と身体を社会や自然のなかに力強く留めようとする。

田嵜裕季子作品
田嵜裕季子作品

 人と人との関係性のなかで合う身体と心、自我と他我は、人間と自然や動物との支配/被支配をめぐる権力関係のなかで自己や世界のあり方を問い直すように迫る。《縫うもの縫われたもの》(橋本佐枝子)は、一頭のシカを撃ち、解体し、皮をはぎ、なめして、絵を描いたものだ。カンバスとなったシカの毛皮には牙を剥いて観客に襲いかかろうとするクマやオオカミとともに、往年の少女マンガにみられたようなキャラクターやスマイリーフェイスのシールが散りばめられている。子どものイノセンスに動物の凶暴性が重なるときに現れるのは、大人と子どもという支配/被支配、あるいはみる/みられるという関係に内包される暴力性だ。《撃つもの撃たれたもの》では、屠殺されたシカの静物画(la nature morte)に自身の死を見ることもできたかもしれない。

橋本佐枝子作品
橋本佐枝子作品

 社会という関係性のネットワークのなかで、人々は絶えず争いや病、あるいは悪に直面することになる。《ブランケット》(松下誠子)は、赤く染められた無数の羽毛でつくられた毛布を「安心防衛毛布」あるいは「制度から外れた赦された庭」として半透明のパラフィン紙でできた《枕》とともに配置されるインスタレーションだ。深紅の薔薇や薄いピンクの桃の花、時に血の色をも思わせるおぞましくも甘美なまでに染め上げられたブランケットは、他者や病によって、あるいは社会のなかで暴力に打ちひしがれた人の心身を無条件に包み込もうとする。羽毛に塗れた乳房の切片が無造作に転がる光景は、衝撃的ではあれ、慈愛に溢れたユーモアを感じさせる。生あるいは性の衝動と暴力を直視することからしか、人は他者を受け入れることができないのだろうか。

松下誠子作品
松下誠子作品

 心や関係性の傷が癒えることがあるとすれば、自然のなかで時間をかけて言葉を交わすことによってのみ可能になるのかもしれない。《母の肖像》(宮森敬子)では久里浜の海岸が和紙のスクリーンにプロジェクションされ、心理療法を受ける母親と「私」の会話が流れる。何気なく、あてどない2人の言葉は、見るものに痛いまでの切実さを突きつけてくる。《グッバイ、私の小さな表面たち》で表現される木の表面を木炭で和紙に写し込む「樹拓」は、樹皮を流れる自然の時間に記憶の襞を重ね合わせたものだろう。《修復の為に(Love×Love)》では、父と母とともに「私」が採集した樹拓は半分ずつ銀と黒の箱に入れられて観衆に差し出される。人の心、あるいは家族の関係性の傷は、それぞれの歴史を生きる観衆と分有されることによって恢復へと向かうとしたらどうだろうか。

宮森敬子作品
宮森敬子作品

 社会というシステムによって分断される人と人の関係性は、分断を超えて差し伸べられる人の手によってこそ恢復する。「37兆個が眠りに就くまえにVol.2『自分で額を撫でるとき』」(イトー・ターリ)では、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を抱えて生きる人とその身体を構成する細胞が日本の医療・福祉の保険制度のなかで無慈悲に分類され、ケアを受けるときに感じられるもどかしさや悲しみが、身体の状況や周囲の人々への思いをめぐる朗読とともに表現されたことだろう。同居する「家族」が「家族」として認められないことで、ケアを行えず、受けられないことへの無力感と怒り。黒雲母のかけらを手にし、剥がす行為の繰り返しは、制度によって分断される人と人との親密な関係を優しくも力強く取り戻そうとする闘争と鎮魂のパフォーマンス・アート・アクションとなったのではないか。

佐藤慶子パフォーマンス
佐藤慶子パフォーマンス

 一個の人が社会や自然に向けて何かを表現し、ものや言葉、音声が他者の心身に向けて投げかけられるとき、社会や世界はどのように変わるのだろうか。パフォーマンス・コンサート「花のように しなやかにたくましく いのちを奏でる」(佐藤慶子)では、花をテーマにした演奏や歌とともに観客の呼吸や声を整えるセッションが進められた。日常生活のなかで規律化され硬直した身体は思いがけず解きほぐされ、呼吸のリズムは緩められ、発声という行為のなかで花のように開かれていった。花をめぐる思いや記憶を込めた参加者の「はな」という言葉の連呼は、やわらかな陽光のなかで木霊するかのように宇宙的な響きを宿す。「万葉春」や「ひふみ音頭」に寄せられた佐藤の演奏と歌とともに、生命や生活の可能性を開かせる神話的な広がりを感じさせるものだった。

 「病が私を押しつぶし、ベットの隅に頭を埋める 自分を慰めようとしたアクション 額を人差し指で撫でる
 滑らず、むしろ凹凸を感じながら 私のできる最大の愛撫」(イトー・ターリ)

 イトー・ターリが本展に寄せた言葉と非公開のパフォーマンス・アート・アクションは、自身と周囲の人々、そして日本のアート・アクティビズムとアート・ヒストリーにとってほとんど最期の表現となった ※1)。息を引きとる前に、イトー・ターリは病床に横たわりながら窓の外に広がる世界をどのように眺め、意思し、願っただろうか。パフォーマンス・アート・アクションが行われた後に公開されることになっていたビデオは、いつ、どのように編集され、公開され、人々に受け入れられることになるのだろうか。最期のパフォーマンス・アート・アクションを収めたビデオはそれぞれの人にとって、会場で断片となった黒雲母のかけらを拾い集め、読み上げられたイトー・ターリの詩片を紡ぐ喪の時間、あるいは絶望のなかに希望の光を見出す時間となるだろう。

イトー・ターリ作品
イトー・ターリ

 ツタ、クマ、オオカミ、トリ、樹木、黒雲母、花・・・・・・。「LOOP Art Hospitality 広がる、人と命の輪」は森のメタファーとともに、生命の潜勢力と人々の連帯の可能性を模索することとなった。破壊的な出来事によって脳に不可逆な転倒と同一性の完全な変容をもたらされた〈新たなる傷つき者〉にとって、「私が生きるとき、そこには誰もいない」とカトリーヌ・マラブーは述べる2)。「エクリチュールをとおして、いわば意思的な消滅が行われ、それが作家の生存そのもののなかでなしとげられてしまう以上、書物のなかで表象=代行される必要はない」「私が書くとき、そこには誰もいない」というミシェル・フーコーの作者をめぐる記述 ※2)を経て、人は神経(ニューロン)的なもの、あるいは脳を介した物質的なネットワークとして描かれる。展示作品でみられたのは、破壊的な出来事という絶望のなかで人が見出しうる希望のネットワーク、新たなる自然の光ではなかったか。

 アートとアート・ドキュメンテーションは、ボリス・グロイスが述べるように生命と生活を管理する生権力(バイオ・ポリティクス)に対する生芸術(バイオ・アート)として作用している ※3)。生権力を構成する医療制度や生活規範といった社会システムは、アートに内在するアーティストの感性やビジョンによって変容する。イトー・ターリという37兆個の細胞から構成されていたアーティスト/アクティビストの身体、物質的なネットワーク、あるいは新たなる自然の光をとおして私たちに託されたのは、社会システムを新たなる傷つき者のために更新し、変容させようとする意思と行動だろう。額を人差し指で撫でるというイトー・ターリの最期の身振りを誰かに、あるいは自分自身に行うこと。その身振りを感じながら、安心と安全、あるいは合理化の名の下に管理される生存の規範に対して、日々の政治的な交渉のなかで抗い続けること。その身振りこそが誰かの生活と生命をいつまでも力強く支える最大の愛撫となり、誰かの生活と生命にとって恢復の時間をもたらしてくれるはずだ。

〈参考文献〉
※1)イトー・ターリ.わたしの言葉を。Vol.7 パフォーマンス.ラブピースクラブ.2021年5月11 日公開.https://www.lovepiececlub.com/column/16220.html(2021年9月24日アクセス)
※2)カトリーヌ マラブー.平野 徹 訳.新たなる傷つきし者:フロイトから神経学へ 現代の心的外傷を考える.河出書房新社.2016.
※3)ボリス・グロイス.アート・パワー.石田圭子ほか訳.現代企画室.2017.

工房 親(恵比寿)

F.アツミ 他のブログ https://tokyo-live-exhibits.com/tag/f-atsumi/

F. Atsumi
編集・批評
アート発のカルチャー誌『Repli(ルプリ)』を中心に活動。これまでに、『デリケート・モンスター』(Repli Vol.01)、『colors 桜色/緑光浴』(Repli Vol.02)などを出版。また、展示やイベントなどのキュレーションで、『春の色』(2013年)、『十字縛り キャッチ・アンド・リリース』(2013年)、『テロ現場を歩く』(2014年)などに携わる。アート、哲学、社会の視点から、多様なコミュニケーション一般のあり方を探求している。https://www.art-phil.com/

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