【The Evangelist of Contemporary Art】さいたま国際芸術祭2020を観て―行政アートの顛末(後半)
(前半から続く)
作品はあるが、それが中央に対抗して拠って立つローカルの土台がない。これが、さいたま国際芸術祭が図らずも暴露した真実である。この真実を知ることは重要である。さいたまは、ローカルを再構築いやこれまで不在だったのだから構築すべきである。その際、当たり前だが「カッコいい」、「ダサい」の美的基準を中央(東京)に求めないことだ(6、7)。
その点、横浜はローカルのプライド(文明開化の玄関口の矜持)をいくらか残していた。それが、ヨコハマトリエンナーレをストーリーの消滅から救った。横浜市は、アジア人キュレーターの指名で中央との権力関係を透かし見せ、展覧会の内容でかろうじて抵抗した。それが「密やか」という会場の雰囲気に現れた。密やかな、言い換えれば気づく人しか気づかない抵抗の徴である。
さいたま国際芸術祭には、それがない。そのせいだろう。政治性を脱色した中性の実体(サイト)にアートをいかに還元するかを、アーティストはこぞって試行錯誤していた。たとえば、元区役所の備品の配置を様々に変える(8)。人為の痕跡を露わにする(9)。実体に寄り添い同化する(10)。逆説的に他の場所を訪ねる(11)。そして、テーマの「花」の美を文字通り明示する(12)。結果、晦渋さの靄が作品を包み込み、展覧会を理解した入場者はいなかったのではないか? タイトルの「花」ってなんだ?
他方で今芸術祭は、子供の遊び場(13)や育児休憩や授乳(14)のスペースを用意したり、過去を回顧し未来を展望する資料展示(15)をしたりして社会と意識の改革を提案している。その様は、さながら福祉と文化に関する行政アート(お題目は地域振興)である。これは、行政の問題がアートの表舞台に立った初のケース(以前の町おこしの展覧会はアートが利
だが、それらが出発点になることは不可能ではない。正面から批判しなくともよい。現代アートは、宇宙の万有引力の法則をあらためて永遠化する(16)、絶対的な解放をオプティミスティックに実践する(17)、あるいは行政と文化的に徹底的に闘う(18)ことで、日本の官僚主義の悪しき歴史を書き換えることができるのだ。
(文・撮影:市原研太郎)
コメント